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EternalCurse

Story-91.追跡‐U

「あの……すみません」
ルドルフが放った追手を引き離して雑踏を歩くエステリアの一声はこれだった。
その言葉に、シオンは慌ててエステリアと繋いでいた手を離した。

「ああ、申し訳ありません。気が利きませんでしたね。ですが、貴方の旦那様には悪いとは思っていますが、とりあえず今、私達は、異国の恋人同士……といった感じで歩いた方が、いざというとき、貴方を連れて走るのに都合が良くて……」
「いえ……そうではないの……」
てっきりいつまでも人妻と手を握っていた事を不快に思われたと勘違いしていたシオンは、目を丸くした。
「ここまで私を連れて逃げてくれたことは、感謝してます。私一人だったら、きっと追手に捕まってたと思うし……」
「では……一体何が? 『すみません』だったんですか?」
「追手の存在に、全く気がつかなかったことです。私だけのうのうと歩いてて、仲間の様子がおかしいことだけは、なんとなくわかってはいたけど……てっきりあの国王陛下の仕打ちに皆、怒ってるんだと思ってて……」
自己嫌悪――といった感じで、エステリアは溜息をついた。
「ああ、そのことなら気になさらなくて結構ですよ。そもそも気づく人の方がおかしいんですよ」
「え?」
「だって、ほら、私達は人間ではないでしょ?」
さらりと言われてエステリアは返事に困っていた。
「ちょっと語弊がありましたね。私やサクヤ、シェイドさんは人とは違いますから、相手が発する良からぬ気――のようなものを察知することができます。人間であるガルシアさんの場合は、これまでの戦歴から得た勘が働いたのでしょう」
宥めるような口調で、シオンが話を続けた。
「……もしかして、そういったことで自分自身に無力感を抱いてしまったのですか?」
「はい」
「貴方は、貴方のままでいいんですよ? 神経を尖らせておくのは貴方の役目ではありません」
エステリアが隣のシオンの横顔を見上げる。
「それに……、貴方までサクヤのように『完全無欠な女傑風』の神子になられては、シェイドさんが可哀想です」
屈託のない笑顔がこちらに向けられ、自然とエステリアにも笑みがこぼれた。
「ありがとうございます。本当にシオンさんがついてきてくれて良かった」
仲間内で張り詰めた空気が流れるときも、即座に場を和ませてくれる。そんなシオンの存在はエステリアにとって、心強いものであった。
「さて、どの道順を通って、宿屋まで戻りますかね……」
シオンはそう言うと、周囲を見回し、この辺りに掲げてあるであろう、街の見取り図を探しながら歩く。エステリアも同じように、街の両脇に気を配りながら歩みを進めた。

「あれは? 香草やお薬を売っているのかしら?」
ふいに目に付いた人だかりに、エステリアは思わず足を止めた。どうやらスーリア人が出店を開いているようだ。店の台には紅い絹の敷物がかけられ、その上に、乾燥させた茶葉や、それを粉末にして袋に入れたもの。小さな壷に入った軟膏のようなもの、鮮やかな色の液体を、手軽に持ち運べるガラス瓶に入れたもの――などが並べられている。
「やめておいた方がいいですよ」
物珍しそうに出店に近づくエステリアの二の腕を掴み、シオンが引きとめた。
「どうして?」
「あれは、普通に使える薬ではありません」
言いながら、表情を曇らせたシオンの様子に、エステリアははっとなった。
「まさか……毒?」
「いいえ」
シオンは首を振る。
毒でなければ、一体、何の問題があるのだろうか?――エステリアがどこか納得できないような様子でいると、シオンは、ばつが悪そうな面持ちで、言葉を選びながら語り始めた。
「まぁ、貴方があれを使って、シェイドさんとそういう事を、『もっと過激に』楽しみたいとか、いつもとは違う『心地よさが欲しい』と言うのであれば、別段止めはしません。貴方がたは一応、れっきとしたご夫婦ですし? そういうわけで、買われますか?」
シオンが遠まわしに何をいわんとしていたのか、エステリアはようやく理解したようで、
「……つまりは……そういう薬ってこと……ですか?」
と、小さく訊き返した。
「ええ。俗に惚れ薬、とは言われてますが要するに媚薬です。西の果て、スーリアの名物の一つでもあります。彼の国では、男女問わずに色事には奔放と聞きますし? ああやって並べられているのを見ればわかるように、液体にしたもの、粉にしたもの、香として焚くもの……形状は様々です」
「セイランにも、そういうのあったりします?」
そこまで言ってしまった後、突拍子も無い質問をしてしまった、とエステリアは即座に後悔した。
「勿論です。調合しようと思えば作れます。ただ、我が祖国のものは、彼の国のものに比べれば、効果も可愛いものです」
「そんなものを堂々と……こんな場所で売るんですか?」
「白昼堂々と、と思われるでしょうが、意中の相手を虜にする薬……とでも言って売れば、男女問わず食らいつくでしょうしね。しかしスーリアの媚薬といっても、見た限り、既に貴族や豪商が買いあさった後の残りを売りさばいているようですがね」
「貴族や……豪商って……身分の高い人ほど……教養もあれば……貞淑なんじゃ……」
「とんでもない。権力と女はつきものですし、ご婦人方も火遊びはしますよ。下手をすればあのスーリア人は、王室にも出入りしている場合がありますね。そもそも身分の高い人の目的は、欲を満たすことは勿論、子孫繁栄でしょうから、この手の薬は必須でしょう」
「それは……長年、務められている薬師としての見解でしょうか、それとも、鬼神として何か達観されてのお言葉でしょうか?」
「どちらもです。あと、この手の話は、それこそシェイドさんに聞いて下さい。あの方も王宮勤めの王宮育ちなので、色々とご存知でしょう……。それはそうと……」
はぐらかすようにして、シオンはこの話を切り上げると、再びエステリアの手を取った。
「どうやら、追手の人数が増えているようです。それに先程よりも足が速い。逃げますよ」
「え? でも……」
エステリアは背後を振り返って見たものの、シオンの言う追手と思しき人間の姿は見あたらない。
「なるべく引き離しておいた方が無難です」
エステリアが疑問を口にする前に、答え、シオンはそのまま近くの酒場の扉を開けた。

「ちょ……ちょっと、昼間からこんなとこ……」
店内に足を踏み入れるなり、むせ返るような酒気が鼻をつき、肺腑を焼く。物珍しそうにこちらを伺う荒くれ者達の視線すら気にも留めず、シオンはエステリアを連れて、酒場の店主の下へと向かう。
「おいおい、兄ちゃん、ここはあんたらみたいな恋人達が来る様な場所じゃないぜ? 冷やかしならお断りだ」
元山賊か、海賊――といった感じの、体格が良く、人相の悪い店主が眉根を寄せる。
「この店の裏口を教えていただけますか?」
しかしシオンは店主の機嫌などお構いなしに尋ねる。
「ああ? 兄ちゃん、何言ってんだ?」
店主はさらに語気を強める。不安になったエステリアが、シオンの顔を見上げた、その時だった。
「裏口、教えてくれますよね?」
暗示でもかけるかのように、ゆっくりとした口調で店主に語りかけるシオンの瞳が、鬼神の時と同じ銀色に輝く。そんなシオンと視線を合わせた店主の瞳が、まるで紗がかかったように翳り、
「それなら……こっちだ……ついてきな」
感情の篭らない声で、エステリア達を手招きした。次に瞬きをした瞬間、シオンの瞳は普段とは変わらない淡い紫色に戻っていた。

「一体……何をやったんですか?」
「ちょっとだけ、言う事を聞いてもらっただけです。術が効いてるうちに、行きましょう」
シオンはそう答えると、エステリアの背中を軽く押し、虚ろな眼差しで裏口の戸を開けて待つ、店主の元へと促した。酒場の裏口から抜けた通りといえば、やはり、ならず者が闊歩する、危険な路地裏を想像していたエステリアであったが、目の前に広がった風景は、先程とさほど変わらぬものであった。
「表通りに負けず劣らず、裏通りも活気がありますね」
さっと、一通りを見回して、シオンが言う。
「表通りは、グランディアの名物や調度品、あるいは異国の出店による輸入品を売り、食事処や酒場にて旅人などを持て成すことが目的のようですが、裏通りは、青果に魚、肉、パン……など、どちらかというとグランディア国民の台所を担っている店が連なってるようですね」
「確かに……言われて見ればそうですね」
シオンの指摘した通り、裏通りは店の並びも、食材や生活用品を取り扱ったものが多く見受けられる。
「とりあえず、進みましょう。宿屋へ戻る道は、きっとどこかにありますから」
何事もなかったかのようにシオンは歩みを進める。シオンに歩幅を合わせ、エステリアもまた黙って歩き続けた。ふと、通り過ぎたパン屋から漂う、良い香りが鼻腔を刺激する。足の速さを緩め、ふいにパン屋を見遣ったエステリアに
「あっ!」
鈍い衝撃と子供の声、そして女の小さな悲鳴が伝わる。
「え? あ! ごめんなさい!」
気がつけば、自分の背後で小さな男の子が転んでいた。
「ねぇ、貴方、大丈夫?」
歳は二歳ぐらいだろうか? どうやらエステリアが立ち止まろうとした瞬間に、躓いて転んでしまったらしい。男の子は膝に擦り傷を負い、目には涙を一杯に溜めてはいたが、
「うん……」
とやせ我慢して、痛みに耐えていた。
「ああ、すみませんっ!」
すると、子供の母親と思しき人物が、抱えていた焼きたてのパンを詰めた袋と花束をその場に置いて、駆け寄った。
「こら! あれほど母さんの傍を離れるなっていったでしょ!」
歳は三十そこそこといった感じだろうか? 緩やかに波打った明るい茶色の髪、垂れ目で愛嬌のある面差し、少しふくよかな風体の母親は、子供を注意すると、エステリアにも深々と頭を下げた。母親は、その場に屈むと、手持ちのハンカチを使って、我が子の膝についた砂や泥を払い落とし、擦って宥めてはいるが、子供は歯を食いしばって我慢している。
「いえ、謝るのは私の方。ごめんなさい。急に立ち止まろうとして……」
「エステリアさん、ここは『得意』の癒しの術で、治して差し上げたらいかがでしょう?」
「え?」
不意にシオンから提案され、エステリアはぎくりとした。神子の『洗礼』を受けてからというものの、癒しの術は一度も使ってはいない。穢れを知り、神子の資格が無くなってしまったと、シェイドから真相を伝えられるまで思い込んでいたからである。自ら封印してしまった力を呼び起こす――果たして、可能なのだろうか?不安を覚えるエステリアであったが、自らの不注意から怪我をさせてしまった子供を見るのは忍びない。迷っているような場合ではなかった。
「ちょっと……いい?」
エステリアはその場に屈むと、右手を子供の膝にそっと添えた。別に自分は神子の資格を失ったわけではない。ただ、自分の力を自ら押さえ込んでしまっただけだ、以前、矢傷を負ったシェイドを癒したときのようにやればいい――エステリアは自分にそう言い聞かせながら目を閉じた。右手に意識を集中させ、子供の膝が癒える様子を想像する。温かな気が徐々に手の内に篭り始めるのを、エステリアは感じ取っていた。そのまま、子供の傷をゆっくりと撫で下ろす。
「あ!」
「え?」
母子が同時に目を丸くした。
「出来た……」
子供の膝から傷跡が消え、エステリアが安心したように肩の力を抜いた。
「ほら、心配なかったでしょ?」
「まぁ……奇跡だわ! 貴方はとても神通力に恵まれたお嬢さんなのね。ほら、お礼を言いなさい」
目の前で起こった小さな奇跡に感嘆していた母親は、ふと我に返り、我が子の頭に手を当て、無理矢理頷かせる形で、礼を言わせた。
「ところで……貴方がたは、一体どちらまで行かれるのですか?」
「この先の教会まで……」
ゆっくりと立ち上がりながら、母親は言った。
「でしたら、そこまでお送りいたします」
シオンはそう言うと、訝しげな表情で佇むエステリアに、二人であからさまに逃げるより、子連れの方が見つかりにくいですから――と耳打ちする。
「ともすれば、大怪我をしていたのかもしれませんし。それぐらいのお詫びはさせてください」
「いいんですよ、お詫びなんて……」
「ですが、貴方は身ごもっておられるのでしょう? せめて荷物をお持ちいたします」
シオンに言われて、エステリアはふと目をやると、母親の腹は大きく迫り出していた。先程から子供に気を取られていたこと、そしてこの女性自身がわりとふっくらとした顔立ちのため、気づかなかったのだ。
「本当に……よろしいのですか?」
申し訳なさそうに、母親が尋ねる。
「なんならお子様は私が背負いましょうか?」
「あ、じゃあ、私が荷物を持ちます」
馴れた手つきでシオンが、子供を背に乗せる。エステリアは母親から、見た目よりもぎっしりと詰め込まれたパンの袋を受け取りながら、
「あの……お名前を……伺ってもよろしいでしょうか?」
改めて訊いた。
「あら、やだ。まだ名前を言ってなかったわね。私はグレイス・バーグマン。それから息子のユーリよ。よろしくね、お嬢さん」
グレイスは、エステリアらに荷物を預け、自ら手ぶらになってしまうことが、申し訳なく思えたのか、『これぐらいは自分で持つわ』――と、花束を自分で抱え、ふわりと笑った。
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