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EternalCurse

Story-85.出立‐T
その朝、いつもよりも数刻、遅く起きたエステリアは、気だるい上体を起し、褥より滑り落ちた衣服を手に取った。
薄絹の夜着を軽く肩にかけると、寝台を降りる。
身体の中心に残った甘い疼きを抱えたまま、おぼつかない足取りで、鏡台の前へと向かった。鏡に映し出されたエステリアの美しい裸体は、確実に神子となる前とは違っていた。
白く滑らかな肌に、蜜と共に甘く吸い出された胸の飾りは、まるで真珠の粒のようだった。
未だしっとりと潤った花びらは、昨夜の余韻を残しているためか、少しだけ熱を孕み、花芯と共に、ぽってりと膨らんでいた。そしてなによりも、その花にはシェイドの残り香がした。
自らの中に潜む力がそう思わせるのか、彼に刻み付けられた身体の隅々まで、その全てが愛しかった。
身震いするほどの幸福感、それは母性にも似た満ち足りた思いに、エステリアは両手で自分の身体を抱きしめた。と、同時に、どこからとも無く湧き出る、底知れぬ不安がエステリアの中で交錯する。

不安とは勿論、ミレーユのことである。今シェイドが注いでくれている愛情が全て『最後の英雄』の魂によって、導かれているものだとしたら……もしも全てを終えて、神子や英雄の魂の束縛から解放されるときが来れば、その愛情すら一瞬にして消え失せてしまうのではないだろうか?

エステリアは無意識のうちに、シェイドの中に入り込んだ際に垣間見たミレーユとの一件が、どうしても忘れられずにいた。
いや、昨日の今日だからこそ、こんなにも気になってしまうのだろう――エステリアは不安を振り切るようにして、夜着の襟を正し、振り返った。
起き上がるときにも既にわかっていたが、寝台にシェイドの姿はない。睡眠や人としての食欲などが無縁である妖魔の身体だ。エステリアよりも数刻は早く部屋を……いや、それ以前に神子と同衾している光景を、使用人に知られる前に抜け出した――といった方が正しいのだろう。

シェイドの寝室、といっても客人としての部屋はこの近くにあるはずだ。エステリアは簡単に身支度を整えると、シェイドに会うべく扉を開いた。
その刹那――、
「きゃっ!」
エステリアが一歩外へと踏み出した際、大きく黒い塊が勢い良く頭上を掠めた。エステリアは咄嗟に両手で頭を押さえたまま、その場にしゃがみこむ。
「な……なに? いまの……」
エステリアは恐る恐る、背後を振り返る。その視線の先には、
まるでぽっかりと開いたような闇があった。
「黒い……鳥?」
いや、闇ではない。鴉とも、鷹とも孔雀とも言えない黒い鳥が、煌々と陽の光が降りしきる窓際でその翼を休めていた。
「全然……似合わないわ……」
まるで闇を象徴するかのような鳥が光の中に佇むその様子は、全くもって絵にならない。むしろ違和感すらあった。黒い鳥を凝視したまま、エステリアがぽつりと呟く。
黒い鳥はエステリアの方をじっと見つめているようだった。
何故、扉を開けた瞬間に、このような鳥が飛び込んできたのだろうか?
エステリアは首を傾げた。
扉の先にあるのは廊下である。勿論、そこにある窓も空けられてはいない。屋敷に迷い込むには大きな鳥である。いや、迷い込んだが最後、使用人達が大騒ぎをしているはずだろう。
逆光でよくは見えないが、その鳥はこちらに敵意を向けているようには思えなかった。

「何蹲ってるんだ? 気分でも悪いのか?」
エステリアの頭上から声がする。勿論、以前とは少し変わってしまったものの、エステリアはこの声の持ち主を知っている。
「シェイ……ド?」
見上げたまま、エステリアは目を大きく見開いた。シェイドの銀髪が、肩にかかる程度の長さでばっさりと切り落とされていた。
「どうしたの?」
「あの鳥を捕まえにきただけだ」
先日の交歓でさえ、何事もなかったような口調でシェイドは素っ気無く言う。
「いや……あの鳥も気になるけど、そういうことじゃなくて……」
シェイドは眉間に軽く皺を寄せると、
ああ、これのことか――と銀髪のひと房を摘んだ。
「お前がやったように、髪を媒介して、折れたナイトメアを他の剣に定着させるつもり――だったんだが、どうもこいつの魔力に『剣』の方が耐えられないらしい」
言いながら、シェイドは片手に持っていた剣の柄をエステリアに見せ付けた。
剣にはびっしりと錆が付着している。それでもまだ、首を傾げるエステリアに有無を言わせることなく、シェイドは続ける。
「ナイトメア――つまりはそこにいる鳥だ」
「……え、は?」
「まったく、世話が焼ける……」
シェイドは煩わしそうに窓際に近づくと、ナイトメアだというその黒い鳥を抱え上げた。
エステリアの前に連れて来られたその鳥は、確かにナイトメアの特徴である真紅の瞳を持っている。「こいつが変幻自在――色々な姿になることは、お前も知ってるだろ?」
エステリアは小さく頷いた。
ナイトメアはセイランでは蛇のような形を取って、シェイドの腕の中に沈み、その身を隠した。メルザヴィアでは本来の精霊の姿、取り付いたものを操る鎧の姿となって、エステリア達を苦しめた。そして折れてしまった今は鳥の姿を模している。

不思議な生き物だ――とエステリアが見つめる傍ら、ナイトメアは口ばしで、エステリアの左手に嵌められた黒い指輪を軽く突いた。勿論、この指輪はナイトメアの分身でもある。
「これが――どうかしたの?」
そう尋ねるエステリアに答えるかのように、ナイトメアの身体の輪郭がぼやけていく。

「おい……今度は何に化けるつもりなんだ?」
うんざりとした口調でシェイドが呟いた。
ナイトメアの身体が溶け、ただの闇の球体に変じたかと思うと、触手を伸ばし、エステリアの指輪へと巻きついた。突然のことに、エステリアは小さな悲鳴を上げた。
その間にも闇の一部が、勢い良く指輪へと吸収されていく。
ナイトメアの力の一部を得たそれは、指輪と腕輪を鎖で繋いだ、装飾具(スレーブ・ブレスレット)へと変化していた。エステリアの左手の甲を覆った黒い装飾品は、かつてのナイトメアと同じく、天使と悪魔の翼を生やした女神像が刻み込まれている。
指輪であった部分には変わらず小さな猫目石が埋め込まれていた。
と、同時にシェイドの腕の中にいるナイトメアは、先程よりも一回りほど身体の小さい鳥に姿を変えている。
「なにこれ――どういうこと?」
エステリアは自らの左手とナイトメアを交互に見ながら、呟いた。
「もしかしたら……」
エステリアと同じく、この出来事を目の当たりにしていたシェイドが、腕の中に収まっている黒い鳥に視線を落としながら口を開く。
「……なるほど、そういうことか」
「え?」
「いや……俺は、折れた魔剣を再生させるのに、別の剣にこいつを丸ごと定着させようと試みたが、ことごとく失敗した。だが、自分の分身である指輪なら、こいつも安心して定着できるということか」
シェイドが言った直後、まるでそうだといわんばかりに、ナイトメアがシェイドを見上げた。
「この調子で、いくつかに分けてナイトメアの力を切り離していけば、一時的なものかも知れないが、こいつ自身も鳥だの蛇だのに変化しなくていい分、楽になるのかもしれない」
「いくつかにって言うけど、今、魔剣が、力の分散に成功したのは、相手がこの指輪だったからでしょ? 他のものに定着できるの?」
「今だからできるかもしれない。一部の力をお前の指輪に分け与えたんだ、こいつの魔力も多少は弱くなっているはずだ」
シェイドはナイトメアの頭を撫でながら、続けた。
「さっきと今ではこいつの身体の大きさは随分と違う。大半の力をその指輪が吸収してしまったとも考えられる。今の段階なら、普通の剣にこいつの残った力を定着させて持ち運ぶことができるかもしれない。念のため、もう少し力を小分けしたいところだが」
「小分けって……誰の何に分ける気なの?」
「一回は俺の剣、もう一回――手っ取り早くは、ガルシアのバスタード・ソードだ」
シェイドの答えは早かった。
エステリアはぽかん、と口を開けたまま、硬直した後、我に返って反論した。
「簡単に言ってるけど、定着に成功したとして、ガルシアさんが武器を持った途端に死んだらどうするの!」
「現にお前は死んでないだろ? 分身の指輪に、魔剣の力の一部が宿ったんだぞ?」
確かにそうだ。それにはエステリアも返す言葉が見つからなかった。
「それに、力を分散した今となっては、以前のように相手を一撃必殺で倒せるような力は持ち得てないはずだ。力が定着した剣はせいぜい、切れ味が良くなるとか、一振りで衝撃波が出る程度か」
「衝撃波が……出る……程度……」
「とりあえず、俺はもう一度、こいつが別の剣に定着するよう、試してみる。朝っぱらから騒がせてすまなかったな」
思い立ったらすぐに実行に移したいのだろう。シェイドはエステリアに断りを入れると、ナイトメアの化身たる黒い鳥を連れ、部屋を出た。
呆然とした表情でその背中を見送るエステリアに、
「エステリアさま、お召し替えのお時間でございます」
と、シェイドと入れ替わるようにして現れたブランシュール邸のメイドが語りかける。何やら落ち着かない気分ではあったが、エステリアは、渋々メイドに従った。




「いよいよ昼には出立……もとい出航だな」
朝食のために集まったブランシュール邸の食堂で、ガルシアが感慨深く呟いた。
現在、着席しているのはブランシュール夫妻、そして王妃、シェイド、ガルシア、サクヤ、シオンである。
とはいえ、夫妻や王妃が揃う前、食堂でひと悶着あったのは言うまでもない。
勿論、その原因はナイトメアとシェイドである。
力が半減したナイトメアを見事に別の剣に定着させることに成功したシェイドは、間髪いれずに、ガルシアに、魔剣の力の受け入れ先になるよう、申し入れを行った。
ナイトメアの力が、自らの剣に宿ってしまう――そのことに勿論ではあるが、ガルシアは猛反発した。
「この野郎! 俺が天に召されたらどうするんだよ!」
これまでの魔剣の威力を知っていれば、ガルシアの主張は至極当然のものである。
「とりあえず、お前にも逆らうなと魔剣に躾けた。多分、大丈夫だろう」
その『多分』が一番重要なんだよ――ガルシアは喉にまで上がって来たその言葉を叫ぼうとしていたとき
「はいはい、しっかり持ってて下さいね」
いつの間にやらシオンがガルシアのバスタード・ソードを持ってきて、その両手にしっかりと握らせた上、絶対に離さぬよう、自らの手で押さえつけている。
「こら! 鬼神! 手を離せ!このままじゃ俺が死んじまう!」
「ああ、それなら心配ありませんって。ナイトメアの力はいまや四分の一程度なんでしょう? 普通に持っても大丈夫だと思います。最悪の場合でも気絶か貧血程度で済むでしょう。まぁ、万が一のことがあれば、貴方の魂をうちのサクヤが預かってくれますよ」
「そういうわけだ。心配ない」
「馬鹿! まったく安心できねぇ!」
ガルシアの握ったバスタード・ソードにシェイドは、さらに小ぶりの鳥となったナイトメアを近づけた。
「ひっ」
普段のガルシアからは想像もつかないような悲鳴が零れる。
「ま、これで死んだら、お前もその程度の男だった――ということだ」
サクヤが脅しをかけた。
「放せ! 鬼の兄さんよ! 頼むから放してくれ……ってお前、なんて力だよ!」
バスタード・ソードを握らされた手を振り解こうとしてガルシアがもがく。しかしシオンの力の前にはそれも無力であった。
「力が強いのは仕方ないでしょ? 私、半分は人外ですし?」
涼しい顔をしてシオンが応える。
「終わった、もういいぞ」
反抗するのも束の間、シェイドの声に、シオンがガルシアから身体を離し、一歩引き下がる。
ガルシアはしっかりと握り締めたバスタード・ソードをゆっくりと見上げた。
長年使い込まれてきたその両手剣は、魔剣の力の一部を宿し、刀身が黒鉄のように変化していた。
「案の定、死ななかっただろ?」
シェイドが語りかける。だが、ガルシアからの返事はない。ガルシアは、生まれ変わった愛用の剣が放つ、妖しく美しい輝きに、魅了され、言葉を失っていたのである。
と、このようなやり取りを終えた食堂は、その後、公爵夫妻や王妃を迎えて、いまやエステリアが揃うのを待つだけの状態であった。

「それにしても、お嬢ちゃん、遅いな。やっぱ、ここまでの無理が祟ったのか?」
先程の取り乱しようなど微塵もなく、ガルシアがエステリアの身を案じる。
「心配する必要はない、エステリアは今、新しい法衣に着替えているだけだ。神子である以上、身形も重要だしな」
そう話すサクヤに、
「ああ、なるほど、確かにお嬢ちゃんの法衣、今回の戦いでぼろぼろになっちまったからな。髪だって短くなっちまったわけだし」
ガルシアが理解を示す。

「おはようございます。遅くなってごめんなさい」
静かに扉が開き、エステリアが食堂に入ってくる。
噂をすれば――という具合に、一斉にエステリアの方を向いた一同は、彼女を見るなり、硬直していた。どこかおどおどとした感じで、恥ずかしそうにその場に立ち尽くすエステリアの新しい法衣は、深みのある紅と黒を基調とした服であった。
だがしかし、これまで着用していた淡い紫の法衣とは違い、今度の法衣は、身体の線に反った形で、胸元も大きく開いている。
スカートの丈も以前のものに比べれば随分と短く、脚の大半が露になっているものだった。
短くなった髪もあってか、エステリアの印象は、これまでとはがらりと変わって見える。

「少し……露出しすぎ……です、よね……」
ぽつり、ぽつりと、エステリアが零す。新しい衣装によほど抵抗があるのだろう、その両手がしっかりとスカートの裾を握りしめ、両脚はぴったりと揃えている。
「活動的でいいじゃないか」
サクヤが率直な感想を漏らす。
「可愛いわよ、お人形さんみたいだわ。エステリア」
手を打つソニアの姿に、隣でエドガーが頷く。
「良く似合っている」
淡々と述べるのはシェイドだ。シェイドは王妃に視線を送ったが、微妙な距離にある娘との関係を思ってか、言葉を口にすることはなかった。だが娘の新しい法衣に、不快感を覚えている様子でもなかった。
「いや……なんというか、女の子ってすげえな、衣装と髪型でここまで変わるもんかよ」
ガルシアが感嘆の息を漏らした。
「あ、ありがとうございます……」
想像していたものとは異なり、周囲の好意的な感想に、エステリアはペコリとお辞儀をすると、テーブルに着席した。全員が揃ったところで、使用人達がテーブルに朝食を運んでくる。エステリアら一行は、出立の刻になるまで、唯一の団欒の時をそこで過ごした。
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