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EternalCurse

Story-77.焦燥
「せめてソニアに挨拶を済ませるまで、身体が持ってくれれば……と思っていたが、そう上手くはいかいもんだな」
静けさを取り戻したベランダから、室内に戻りながら、シェイドは寂しげに呟いた。
「どうして、ここに来てくれたの?」
「あの女が持っていた短剣の瘴気を追っていたら、お前に辿り着いた」
レイチェルが所持していた短剣には、人を苦しめながら徐々に死に至らしめる毒が塗ってあるというが、実際のところ、それは特殊な毒の効果というよりは、短剣そのものにかけられた呪詛の類によって、効果を得ているというのが、真実であった。よってシェイドは貫かれた際に、毒と同時に瘴気を送り込まれたが故に変化し、長い間、そのような、いわくつきの品を手にしていたレイチェルは身体を蝕まれた――というわけだ。大事に至らなくて良かった……と、シェイドが胸を撫で下ろす傍ら、エステリアはどうしても『ありがとう』の一言が言い出せずにいた。
「レイチェルさん……追わなくていいの?」
辛うじて出た言葉といえば、先程、自分の命を狙った相手の身を案じるものであった。
このお人よしが――シェイドは視線でそうエステリアに訴えかけると、
「もう丸腰だ。特に屋敷の連中に危害を加えることはないだろう」
素っ気無く返した。
「でも……」
「安心しろ、放っておいてもあいつは勝手に死ぬだろ」
シェイドのレイチェルに対するあまりにもの答えに、エステリアは絶句した。
仮にもこれまで、いや、確かに一方的ではあるが、想いを寄せてくれていた相手ではないか。
「何か不満がありそうな顔をしているな、悪いが俺にとって、お前とあの女じゃ、大事にするべき優先順位が違うんだ」
それは捉えようによっては、熱烈な愛の告白にも思えるのだが、状況が状況だ。エステリアは素直には喜べない。気まずい空気が、部屋中に立ち込める。
エステリアは神妙な面持ちで床を見つめていた。
勿論、シェイドもそんな彼女と決して視線を合わせようともしなければ、レイチェルに対する先程の発言でさえ、悪びれるような様子もない。
「エステリア!? そこにいるの?」
その緊張感と静寂を打ち破ったのは、激しくドアをノックする音だった。
「あ、はい……」
小さく返事をしたエステリアが扉を開けると、その先にはソニアの姿と……後ろには青ざめた表情で佇む王妃の姿があった。
「あら、シェイドのお友達も一緒なの?」
ソニアは、部屋の中にシェイドの姿を確認するなり、呟いた。
「あの……何か用でしょうか」
ソニア一人が相手であったなら、決してこのような応対をするはずのないエステリアだが、王妃が一緒となると、話は別である。どうしても態度が淡白なものになってしまう。
「いえね、王妃様が嫌な予感がするって、仰って……」
どうやらマーレ王妃もレイチェルが所持していた短剣の瘴気を感じ取っていたのだろう。ソニアが状況を説明している間、マーレはエステリアと視線を合わせることなく、俯いている。
娘の身を案じていたとはいえ、いざ本人を目の前にすると、どんな言葉をかければいいものか、迷っているのだろう。それはエステリアも同じであった。
「まぁ! エステリアったら、一体どうしたの? その格好!」
不意にソニアが声をあげた。
ソニアの視線はエステリアが纏ったガウンに集中している。エステリアは首を傾げながらも、自らのガウンを爪先から胸の辺りまで見た後、言葉を失った。借り物であるはずのガウンが、所々、切り裂かれ、袖口も解れている。そう、つい先程まで、レイチェルに切り刻まれかけていたのだ。そのことを思い出せば、生地のどこに綻びが出来ていても仕方が無い。
「あの……ごめんなさい、ソニア夫人。これは、絶対に私が繕い直してお返ししま……」
「そうだわ! 王妃様! 王妃様に繕ってもらえばいいのよ、エステリア」
まるで名案であるかのように、ソニアは手を打ち合わせた。
「……え?」
「……は?」
王妃とエステリアが難色を示しているにも関わらず、である。
「これぐらいなら、私にも繕えます。お構いな……」
何かと親子の仲を取り持つように、気を利かせるソニアには申し訳なかったが、エステリアはその話を丁重に断ろうとした矢先――
「ああ、これは繕ってもらったほうがいい」
シェイドがエステリアのガウンに触れる。
「妃殿下が縫い物や手芸の類を得意とされていることは、カルディアでは有名な話だ。ここは甘えた方がいいと思うが?」
言いながらシェイドの長い爪がガウンをなぞった瞬間、綻んだ生地が、不愉快な音を立てて、さらに引き裂けた。
「ほら、見てみろ、ひどい有様じゃないか」
ほとんど自分で引き裂いておきながら、平然と言い放ったシェイドを、絶対にわざとだ――エステリアは恨みがましく、睨みつけた。
「王妃様、ここは腕の見せ所ですわね?」
「え? ええ……」王妃がきごちなく頷いた。
「ほらほら、そうと決まったら、部屋を変えましょうよ。女三人で、ゆっくりお茶でも飲みながら、話そうじゃないの」
ソニアは、早速エステリアの手を引き、扉の外へと連れ出すと、急いで歩けとばかりに、背中を押した。エステリアは、納得がいかない面持ちのまま、しぶしぶ歩みを進める。ソニアはその背中を押しながらも、シェイドの方を振り返って、片目を瞑ってみせる。シェイドも笑みを返すと、深々とソニアに頭を下げた。





暖炉の前のソファーにゆったりと腰をかけ、佇み談笑にふける女性達の姿などは、傍目には実に穏やかで、とても居心地の良いものにも思えるのだが、このときばかりは違った。
暖炉の前に腰を下ろした女性達は三人。一人は、所々綻びたガウンを膝に置き、繕う王妃マーレ。もう一人はその王妃の向い側のソファーに座っているにも関わらず、王妃と視線を合わせようとしないエステリア、最後はそんな冷ややかな親子関係を、なんとか取り持とうとしたソニアである。
ソニアの気遣いも虚しく、王妃とエステリアが言葉を交わすことはない。
なんとか手放した娘に歩み寄ろうとする王妃の不器用な心が、頑なに母親を突き放そうとするエステリアにも届けばいいのだが――ソニアは居た堪れずに、溜息をつくと、黙々と痛んだ生地に、針を通す王妃に声をかけた。
「見事なお手ですわ。王妃様」
「いやね……ソニア。そんなに買いかぶらないで頂戴……」
マーレがぎこちなくソニアに笑いかける。エステリアは、そんな王妃の顔を実に不思議そうに見つめたかと思えば、すぐに視線を反らした。
「確かに王宮でも、少しだけ刺繍や縫い物をしていたけど……」
言葉に詰まる王妃に、続きを促すように、ソニアが頷いてみせる。
「王妃手ずからの品というのは、一部の方々にはとても喜ばれるのよ。売れば、信じられないような額になるもの」
「まぁ、王妃様がお作りになったものを、お売りに出すなんて! なんて罰当たりな方々なんでしょう!」
「いいえ、違うのよソニア。それは私が望んだことなの。私の作った物を売って得たお金の一部を、身寄りのない子達の産着や、薬代として使うよう、近習には密かに申し付けていたのよ……なんせテオドールはそういった民には決して、手を差し伸べるような男ではなかったから……」
魔物に親を殺され、孤児となった者や、捨てられた子供、重い病に冒された子らを、少しでも救うことが、マーレにとって、エステリアを捨てたことへの罪滅ぼしであったのだろう。ソニアはエステリアに視線を移したが、エステリアは、王妃の話に耳を傾けている様子ではあったが、早くこの場から退出したいといった感じで、少しばかりの苛立ちが見て取れた。
心を閉ざしているこの娘には、母親である王妃がどんな弁明をしたところで、取ってつけたような奇麗事でしかないのだろう。
カルディア崩壊後、テオドールやアドリアとの事、そしてエステリアについて、マーレから真相を打ち明けられているソニアにとって、この母娘のすれ違いは、どうしても放っておけないものがあった。
「ねぇ、エステリア、貴方もしかして……今日、あの子から何か酷い事を言われた?」
ソニアは当たり障りのないように、エステリアに語りかけた。
「あの……『あの子』って?」
顔を上げたエステリアは、『あの子』がシェイドを指しているとは思っていたが、念のために訊き返した。
先程、シェイドは再び人の形を失ったことを悔いていた。確か『せめてソニアに挨拶を済ませるまでは』と言っていたはずだ。シェイドは、カルディア王城では、なんとか人の姿を保ってエドガーと再会してはいるものの、ガルシアと喧嘩別れをして、屋敷に帰宅した後の行動などはわからない。
帰宅後、もしくは、あの不躾な大使を追い払うために、屋敷からカルディア王城に向かったときにでも、ソニアと人の姿で接していたのなら、ここで普通に返答したところで、なんら問題はない。
しかし、ブランシュール夫妻の前で、サクヤ達がどう説明したのかはわからないが、銀髪のシェイドを屋敷に運び込んだ際、あの黒髪のシェイドは、消息不明か、城の復興のために当分、帰ってこないような話になっていた。今しがた、人のシェイドと接したエドガーならともかく、ソニアが黒髪の彼と一度も会っていないのなら、迂闊に返事をすれば、話の辻褄が合わなくなる。
あるいはソニアが指している『あの子』は、別の誰かだろうか……エステリアが神妙な顔つきをしていると、ソニアは苦笑しながらも、あっけらかんと言った。

「遠慮しなくていいのよ、エステリア。せっかくの黒髪が真っ白になって運びこまれた、うちの息子のことよ」
エステリアは、思わず目を丸くした。マーレもまた、言葉を失っている。
「あ、あの……ご夫人は、ご存知で?」
「ええ。あの顔なら知っているわ。ヴァルハルト陛下もそうだったから」
ソニアはまるで『それがどうかしたの?』といでも言いたげな様子だ。
「ヴァルハルト陛下といえば、何度かこの屋敷に長期滞在されたことがあったの。聖戦に赴く前もそうだったわ。『世話になるついでに大事な話がある』って言われてね、エドガーと一緒に、別室に呼び出されて……、何の話かと思ったら、いきなりあの真っ白な姿を見せつけるんだもの。『このまま屋敷の外へ飛び出すこともあれば、銀色の妖魔がどうのと、周囲が騒ぎ立てるかもしれないが、特には気にしないでくれ』ですって! あのときばかりは、私もエドガーも腰が抜けたわね」
まったく、律儀なんだから――と、ソニアが付け加える。
「それに比べたら、シェイドはヴァルハルト陛下とは真逆ね。正直に話さなくてもいいことは、話して、隠さずに打ち明けてくれてもいいことは、必死に隠しているのよ。あの子なりに気を遣っているのでしょうね。でも、少し寂しいわ」
ソニアはエステリアを顔を見ながら、はにかんだように笑う。
「ごめんね、エステリア。あの子のこと、許してあげて」
シオンに続き、ソニアまで……と、こうも重ね重ね、謝罪を受けては適わない。エステリアはほとんど流されるようにして、頷いた。
と、丁度そのとき、王妃もガウンを繕い終えたようであった。
その仕上がりにソニアが感嘆の溜息をつく。
「やはり、王妃様のお手はお見事ですわ。裁縫はお母上様に、お習いになったのかしら?」
興味津々に尋ねるソニアに、王妃がゆっくりと頭を振った。
「いいえ、私は母親の顔を知りません。母のクロエは、私と姉のセレスを産んだ直後に亡くなりましたから……私の血筋はきっと、母親というものに縁がなく、また母親にはなれない血筋なんでしょうね」
それは、自分自身に向けた言葉であったのか、神子であるエステリアも含めての言葉だったのかはわからない。
「縫い物は……そうね、夫のために繕っているうちに、多少はできるようになったんでしょうね……」
マーレの海色の瞳が、心なしか和らいだような気がした。おそらくここで言う『夫』とは、テオドールではなく、大巫女時代の夫――すなわちエステリアの父のことなのだろう。
「あの人は、集落を守る戦士の一人で、衣が汚れたり、ずたずたになることなんて、珍しくはなかったから……」
言いながら、マーレは繕い終わった膝上のガウンに視線を落とした。
「あの人は……収穫前の小麦のような金髪で……集落でも太陽(ソウェル) を意味する名を持っていた。決してその名に恥じることのない人だったわ……」
王妃の話から、察するに、エステリアは魔剣の中で垣間見た父親の幻が、ただの空想ではなく本物であったのだと、改めて思った。
「じゃあ、エステリアはお父様に似ているのね?」
「え?」
唐突なソニアの言葉に、エステリアが顔を上げた。マーレもぽかんとした表情でソニアを凝視している。
「だって、エステリアも、自分の法衣をすぐにぼろぼろにしてしまうんですもの。あれはもう駄目ね。新しいものを仕立ててもらわないと……」
ソニアに指摘され、エステリアは赤面した。至宝の間からなんとか生還し、テオドールとの戦いを終えて、このブランシュール邸に運ばれたエステリアの身なりは、どうやら、相当悲惨なものだったようだ。
「なら、明日にでも仕立て屋を呼びましょう……カルディアはこのような状態ですけど、神子のためなら、すぐに飛んでくることでしょうから」
王妃は立ち上がると、エステリアの肩にガウンをそっとかけた。
「くれぐれもお身体には気をつけて。風邪などを召さぬように」
本当ならば、きつく抱きしめてやりたいほどの衝動を抑え、心を閉ざす娘に障りがないよう、あえて距離を置く王妃の心情も虚しく、エステリアは
「ありがとうございます」
と、蚊の鳴くような声で答えた。





「死にたくない……死にたくない……」
祈るように何度も繰り返しながら、レイチェルはカヴァリエ邸へと辿り着いた。
夕暮れ時に質素な外套を纏って帰宅した令嬢の姿に、すれ違う使用人一同は、呆気に取られ、言葉を失っている。
あの気位の高いレイチェルお嬢様が、なんとしたことか――各々が互いの顔を見合わせて、首を傾げる中、ようやく我に返った家政婦が、レイチェルの元に歩み寄り、伺いを立てた。
「お嬢様……レイチェルお嬢様!! 一体どうされたの……」
「触らないで!」
言葉を終えるよりも早く、その身を案じてくれている家政婦の手を、レイチェルは乱暴に跳ねのけると、自室に飛び込み、扉に鍵をかけた。
「レイチェル様? レイチェル様!」
扉の外から聞こえる家政婦の声、そしてその周辺で、令嬢の思わぬ乱心に、あれこれと想像を巡らせて、囁く使用人達の声が、やたらと耳をつく。
レイチェルは両手で耳を塞ぎ、その場に蹲った。こうしている間にも、呪いとしか言いようのない、黒い染みが全身へと広がっている。
レイチェルは血走った目に、涙を浮かべたまま、唇を噛み締めた。カヴァリエ家の侯爵令嬢として、名を馳せたこの身が、ただの醜い黒炭と化して死んでいくのは、どうしても我慢がならない。
そして、あの頼りない娘に想い人をみすみす横取りされたことが、何よりの屈辱であった。
レイチェルの中で憎悪や嫉妬、憤怒や殺意といった醜い感情が、徐々に膨れ上がってくる。
「どうして私がこんな目に遭わなくてはならないの……エステリア……あの淫売が……絶対に許すものですか……必ずこの手で息の根を止めて……あぁっ!」
突如として襲い掛かった胸の痛みに、レイチェルは床を転げ回った。身体が熱い。皮膚が焼け焦げ、まるで骨が溶けているようだった。それに伴って、黒い染みはいっきに全身に広がった。いや、それだけではない。黒い皮膚からはどろどろと、気味の悪い粘液のようなものが湧き出ている。
「嫌よ……死にたくない……あの女を殺さなきゃ……死にたくない……」
レイチェルは痛みに身を捩じらせながら、迫り来る死の恐怖の中で、狂ったように叫び散らすと、そのまま意識を失った。
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