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EternalCurse

Story-76.哀れな刺客
ガルシアと別れ、エドガー、サクヤと共に屋敷へと帰ってくるなり、エステリアの身体には、さらなる疲労感が押し寄せた。実際、城に赴く前でさえ、歩くのもやっとという感じであったのだ。よくここまで持ったものだと、エステリアは、我ながらに関心した。
ブランシュール邸では、シオンも世話になっていることもあり、勿論だが、サクヤも今回は『ガルシアの婚約者』と、嘯くこともなく、この屋敷に身を寄せていた。

屋敷内で、自分にあてがわれた部屋へと向かって、ふらふらと歩みを進めるエステリアの脳裏に浮かんだのは、言うまでもない、シェイドのことである。
勿論、無理を承知で人の形を保っているこも心配だが、彼にとって、長年の付き合いであるガルシアに対し、あのような態度でふて腐れた彼を、少し諌めるべきだ――と思ったのだ。
ただし、諌めるつもりが相手に、見事に言いくるめられてしまいそうな気も――しなくはない。

それにしても出会った時は、年齢よりも随分大人に見えたシェイドではあるが、あれほど沈着冷静に見えた彼が、近頃は駄々をこねる幼い子供のように、エステリアには思えていた。
全てをさらけ出してからはというものの、それは加速の一歩を辿るばかりのようにも思える。

室内着に着替え、身体が冷えぬように厚手のガウンを纏うと、窓を開け、エステリアはベランダに出た。いつの間にやら雪も止み、外は日が暮れつつある。
日没前の強烈な太陽の光が黄金色に染め上げた雪景色を見渡しながら、エステリアは両手を組んで、祈りを捧げた。もしも、本当に神子としての資格も、力も失っていないのだとしたら、きっと天に祈りも通じるはずだ。やろうと思えば、以前のように癒しの術も仕えるのかもしれない。後は、自分自身の心次第――要するに自信の問題だ。
瞼を閉じて、何度か、大きく深呼吸をしてみると、自然と心も落ち着いた。
さぁ、また雪が降り出さぬうちに、部屋の中に入ろう――そう思いながら瞼を開けた直後、背後で何か物音が聞こえた。きっと、どこかで溶けかけた雪の一部が屋根より崩れ落ちたのだろう。エステリアは気にするまいと、肩の力を抜いた。そんな矢先――
「エステリア……」
どことなく品のある声に名前を呼ばれ、エステリアは顔を上げた。使用人の一人だろうか?――そう思いながらも、振り返ると、そこには、忘れもしないカヴァリエ侯爵の令嬢が立っていた。


「レイ、チェルさん?」
エステリアは侯爵令嬢の来訪よりも、彼女の姿に眼を見張った。
以前、ブランシュール邸で彼女を見たときは、肌も血色良く、貴族特有の品と艶やかを兼ね備えた、優美で健康的な美貌の持ち主であったはずだ。
しかし、今の彼女は、頬がこけ、結い上げた髪にもさほど艶がなく、瞳は充血し、目の下にはどす黒いクマが浮かび、唇はひび割れ、かさついていた。
そして、何より驚いたのは、彼女が華美なドレスの上から纏うには、似つかわしくない、いや、むしろ暗殺などを生業とする者が着る様な、頭巾つきの外套を羽織っていたことだ。
あれほど気位が高く、大輪の薔薇のようであった侯爵令嬢に、一体何が起こったのだろうか?
気になったものの、もとより苦手なレイチェルが相手である。そしてこの侯爵令嬢にしても、こちらに異常なまでの敵意を抱いていることぐらい、エステリアも充分承知している。
とりあえずエステリアは一番無難な質問をレイチェルに投げかけた。
「あの、私に何か用でしょうか?」
「あのお方は、どうして貴方なんかを選んだのかしら?」
全く答えにならない言葉がレイチェルから返ってきた。いや、そのどこか虚ろな表情からして最初からエステリアの問いかけなど耳に入っていないような様子だ。
「そう、あの女もそうだった。ミレーユとか言ったかしら? シェイド様に相応しくない身分の女だったわ。貴方と同じね!」
話を終える前に、レイチェルは外套を翻し、隠し持っていた漆黒の短剣を振りかざし、エステリアに襲い掛かってきた。あまりにも咄嗟のことではあったが、エステリアは、突進してきたレイチェルをなんとかかわすと、数歩下がり、距離を取った。
「レイチェルさん……、どうして……」
いくら良く思われていないとはいえ、それといって、大した交流すらない相手に、命を狙われる筋合いはない。レイチェルのこの行動は、常軌を逸している。
なんとかこの狭いベランダから室内に逃げ込まなければ――、圧倒的に不利な状況で、早鐘を打つ心臓を鎮めながら、エステリアはその隙を見計らっていた。
「本当に、邪魔な女だったの。たかが子爵令嬢の分際で、あの方の心を惑わして……傷つけて……」
レイチェルは、標的を仕留め損なった短剣をさらに握り締めると、気味が悪い笑みを湛え、エステリアの方へ、ゆらりと向き直った。
「だから、消したのよ、あの方を悪い夢から目覚めさせるためだけに!」
再びレイチェルが、短剣を振りかざした。短剣がエステリアの頭を掠め、金糸の髪を数本散らす。
「そう……ただで殺したくはなかった。だから……徐々に死に至らしめる毒を塗ったこの刃を持たせた刺客を放ったの。あんな女、地獄の苦しみを味わって死ねばいい」
レイチェルの瞳は、エステリアを捉えながらも、その向こう側こいるミレーユの幻を見ているようであった。
「そんな……貴方が、ミレーユさんを?」
「だから、貴方も死になさい! そうすれば、私もこの胸の苦しみから、解き放たれる!」
レイチェルは半狂乱になって叫ぶと、使い慣れぬ凶器を、振り回した。
「貴方のやったことで、どれだけシェイドが傷ついたのか、わかっているの?」
その凶刃を避けながら、エステリアは、悲痛な面持ちで叫んだ。
ミレーユの存在を消すことで、シェイドを悪夢から解き放ったとレイチェルが思うのであれば、それは全くの見当違いである。確かにレイチェルが――いや、カヴァリエ家が雇った刺客が、ミレーユの屋敷を襲ったのは事実ではあるが、実質、ミレーユを死に至らしめたのは、この短剣を持った刺客ではなく、この短剣の毒によって、力を暴走させたシェイドである。レイチェルの行動は、ミレーユの死は、結果的にシェイドを救うどころか、自身に宿った力を知らしめ、更なる悪夢のどん底へと突き落としたようなものだ。自分の本能に抗えず、愛した娘の命を絶ったシェイドのそのときの心中を思えば、居たたまれない。
「うるさい! あの人に媚びへつらう淫売が!」
詰め寄るレイチェルに、エステリアが一歩後ずさった瞬間、その足を室内着の裾に取られ、その場に尻餅をついた。レイチェルは、これぞ勝機とばかりに、眼を見開くと、しっかりと両手で刃を握り締め、全ての体重をかけてエステリアに突進した。逃げることも適わず、エステリアはただ反射的にきつく瞼を閉じた。鈍い音がその場に響く。
渾身を込めたレイチェルの憎しみの刃が、身体を貫いたのだろう、と、エステリアは思った。
しかしながら、不思議と身体には痛みも毒が回るような熱も感じない。
エステリアは恐る恐る瞼を開けてみると、視界の先に飛び込んできたのは、あの黒髪の青年の背中だった。その腹部は、レイチェルの刃を受け止め、衣服を朱に染め上げている。
「……シェイド様!」
自らが貫いたものの正体を知ったレイチェルは、咄嗟に刃から手を離すと、青ざめた表情で後ずさった。シェイドは腹部に刺さった刃を引き抜くと、その場に打ち捨てた。それと同時に、夥しいほどの血が迸る。
「シェイド!」
「大丈夫だ……俺に、こいつの毒は効かない……」
片膝をつき、傷ついた腹を押さえ、苦悶するシェイドの身体が微かに震える。
それが一体、何の前兆であるのか、エステリアには見て取れた。
シェイドの体内に入った毒が、闇に反応しはじめている。このままでは、毒の影響でシェイドは人型を保つことができなくなってしまう。
「シェイド……」
咄嗟にシェイドの身体を後ろから抱きすくめたエステリアではあったが、それを止める術もなく、彼の身体は、既に変化を終えていた。それはよほどの苦痛を伴うものなのか、それとも、効かぬとはいえ、一瞬でも身体を蝕んだ毒のせいだろうか、美しい妖魔の顔は、歪んでいる。
シェイドの身を案じながら、エステリアはレイチェルを見上げた。レイチェルの表情は、目の前で起こった出来事に、動じることなく、ただ氷で作った面のように、静かにこちらを見下ろしていた。
「レイ、チェル……」
徐々に癒え始めた腹の傷を押さえ、深い息を吐きながら、シェイドは呟いた。
「そんな顔をなさらないで……シェイド様。私は何も驚いてはおりませんわ。全てリリスを通じて見せていただきましたもの」
「リリスが……?」
こんなところにまで、リリスは根回しをしていたのか……エステリアは固唾を呑んだ。
おそらくリリスは、レイチェルにとって、心が打ち砕けるほどの悪夢を、そして現実を見せ続けたのだろう。いざというとき、彼女の中の憎しみを煽り、都合の良い刺客とするために。
「俺が、何者であるか……わかっているのなら、話は早い……」
シェイドは、エステリアの腕を優しく退けながら、後ろ手にエステリアを庇うように、ゆっくりと立ち上がった。
「お退きになって、シェイド様! その女は貴方を苦しめる。ただ貴方のお手を煩わせるだけで、何一つ、貴方のお役に立てることさえままならないわ。そう、貴方が婚約していた女――ミレーユでさえ、貴方のことを化け物呼ばわりしていたでは、ありませんか! その女も同じですわ!」
「…………」
レイチェルはそのようなことまで知っているのか――彼女の罵倒に気圧されるように、エステリアは俯いた。
「いい加減に……していただきたい」
感情を押し殺したような低い声でシェイドはレイチェルに言い放った。
「俺を鎮めることができるのは、この神子のみです。それは――決して貴方の役目ではない」
その言葉にレイチェルは一瞬、怯んだが、直後、半狂乱になって叫び散らした。
「その女を始末しなければ、私は一生、この胸を蝕むひどい痛みと苦しさから逃れられない! その女は貴方にはふさわしくない。そして……私は、あの卑しい子爵令嬢のように、貴方を絶対に突き放したりはしない! 必ず癒して見せます……なのにどうして……」
髪を振り乱して訴えるレイチェルの両頬を涙が伝う。
「俺は……貴方を卑下するつもりはありません。それに……彼女が……エステリアが俺に相応しくないのではありません。卑しいのは全て我が身……そう、俺が貴方に相応しくないのです」
レイチェルが瞳を見開く。決定的な別れを告げられても、嫌だと何度も頭を振る。
泳いでいた視線が、シェイドによって足元に捨てられた短剣に目が行く。レイチェルはそれを拾い上げようとした瞬間、シェイドの金色の瞳が光を灯した。
その眼力によって、禍々しい効力を、毒を秘めた短剣が、乾いた音を立てて弾け飛び、ただの塵と化す。
「これ以上、神子に危害を加えようとするならば、貴方を生かして返すわけにはいかない。貴方は俺にそんなことをさせるおつもりですか?」
レイチェルの肩がどうしようもない痛みと、悲しみと屈辱に震えている。声を押し殺して、嗚咽しているのがわかった。
「い、や……」
不意にレイチェルが呟いた。レイチェルは右手を直視したまま、凍りついていた。これまで短剣を握りしめていた手に、黒い染みのようなものが浮かんでいる。いや、ただの染みではない。
それは瘴気のようなものを放ちながら、徐々に全身へと広がりつつあった。
「嫌……何よ、これ……」
指先から手の甲にかけて炭のように変色した手を見つめながら、レイチェルはうわ言のように繰り返した。
「嫌よ……どうしてこんなことに、どうして私が?」
まさか短剣の毒がいずこからか体内へと入ったのだろうか? だとすれば、この後訪れるものがあるとすれば、それは苦痛に満ちた死だ。
それに追い討ちをかけるように、胸の間に激痛が走った。心臓が締め付けられるように痛む。
「嫌よ! 私はまだ死にたくない!」
「レイチェル?」
あまりにも突然のことに、シェイドとエステリアは顔を見合わせた。
「死にたくない……まだ死にたくないわ。ああ、どうしたらいいの……助けて……リリス」
これまでの剣幕は嘘のように失せ、レイチェルは、リリスの幻でも、虚空に見出したかのように、よろよろと歩き出した。もはやシェイドやエステリアの事など目にも入っていないようだった。思わず引きとめようとしたエステリアをシェイドが制した。
「自業自得だろ。魔導にも通じていない者が、むやみやたらに魔力や呪詛がかかった道具を使うと、ああいったことになる。あの短剣はただの毒刃ではなかったということだ」
「でも……」
「お前、まだ癒しの術や浄化といった術が使えないままなんだろ? 助けることなんてできないはずだ。それに、あの女は今日、この屋敷に仕えていた罪も無い使用人を一人、殺している。その上お前の命まで狙った。許すわけにはいかない」
ミレーユとの一件もあってか、抜け殻のようになって去り行くレイチェルの姿を、シェイドは厳しい目で見つめていた。
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