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EternalCurse

Story-58.神子の額環
涙に霞んだ目を擦り、あわや嘔吐しそうになった口元を拭うと、エステリアは歩みを進めた。水路の水嵩(みずかさ)はエステリアの膝丈ほどしかなかったが、気分のせいか、随分と冷たく感じる。
望んでもないものが、自分の中に息づいている。腹の中でたゆたうそれは、妖魔との間に出来た、人ならざる子だ。例え、もうじき臨月を迎えると言われても、なんら不思議ではない。いっそのこと、この水が増して、腹の部分にまで達し、また、冬の湖と同じ冷たさであったならば、どれほど良かったであろう、と、エステリアは思った。そうであったら、腹の子はきっと生まれてくることもない。所詮は、陵辱の末に宿った子供だ。決して愛し合って成したものではない。その子が……男が女かもわからないその子供が、もしも生まれて、手を伸ばし、自分を母と慕ってくれたとしても、エステリアには愛せるはずもなかった。ただ気味の悪い、異形の産物としか思えない。
しかし、その気持ちはあくまでも、この至宝の間から無事生還した場合に、得る絶望だ。この後、至宝の結界に阻まれたならば、腹の子共々、自らの命も失われてしまうではないか。
どちらにせよ、自分にはろくな未来は用意されていないのだ――エステリアは下腹を押さえながら、自嘲した。
しばらく水路を進むと、その突き当たりに、なにやら古代文字が記された扉を見つけた。おそらくはここが至宝の間なのだろう。エステリアは水路から、その扉のすぐ下にあった、三段ほどしかない階段を上がると、全体重をかけて、重々しいその扉を押し開いた。
軋んだ音と共に、錆の臭いが鼻をつく。だが、直後、エステリアの目の前に広がったのは、薄暗い水路とは打って変わった眩いばかりの光景であった。
そこは、上部にくり貫かれた窓から、差し込む光が、水を乱反射してきらきらと輝いている。見上げれば、あまりにも高い天井であることから、どうやら至宝の間は、カルディア城内に存在する塔のいずれかに、作られているのだと察することができた。
至宝の間の純白の壁には扉と同様に古代文字がびっしりと記されている。おそらくそれは、神子以外の人間を阻むために施された結界の術式なのだろう。
至宝の間の中央には、祭壇が据え置かれており、その上に至宝が祀られていた。エステリアは至宝の間に一歩踏み入れると、そのまま祭壇の前へと向かう。
祭壇の上に奉納された神子の至宝は、白銀で出来た額環(サークレット)であった。その装飾はまるで植物の蔓を描くように、繊細で、一部分には宝玉を埋め込むための台座が四つほど設けられていた。そのうち二つは既に赤い宝玉と黄色の宝玉で埋まっていたが、この宝玉こそが、グランディアから預かっている至宝の一部で、地水火風の四大元素のうち、火と地を司っているのだろう。残された台座にエステリアがメルザヴィアで譲り受けた神子の至宝、水と風を司る宝玉を埋め込めば、至宝は完成する。エステリアは、その額環に至宝の一部を埋め込むべく、恐る恐る、手を伸ばした。
白銀の額環に手が触れた刹那――
「いやっ……」
まるで雷にでも撃たれたかのように、身体中に痺れが走る。
頭が割れるように痛い。四肢が引き裂かれるかのように痛い。これが、神子でない者が至宝に触れた場合に受ける天罰なのだろうか? エステリアは苦痛に身を捩じらせた。
エステリア自身も知らぬ言葉が、文字が、膨大な知識が頭の中に流れ込む。それはエステリアの記憶をかき消すように、内側から支配しようとしてくる。
魂が壊される――エステリアは心の底から恐怖した。至宝から手を離せば、この苦痛から逃れるかもしれない。そう考えたが、何故か至宝はぴたりとエステリアの手に吸い付き、離れようとしない。
「いや……やめて……!」
引き裂いてもなお飽き足らず、粉塵へ帰すまで繰り返される破壊。身体に、精神に与えられるその衝動に、発狂しそうになる。エステリアは半狂乱になりながら、頭を振り、髪を振り乱した。
拒まれている――至宝が拒んでいる。汚らわしい者が、私に触れるな、と。触れた罪は死をもって贖え、と。
この意識を手放せば、一瞬で終ることができるだろう。この苦痛からも、腹に宿った絶望からも全て逃れることができる。楽になれる。これまで味わってきた苦い思い出からも開放される……。
さぁ、早く安楽な死を選べ、と至宝が誘う。それは甘美な誘いでもあった。

「だめ……」
エステリアは歯を食いしばり、苦痛に耐えた。いつしか両目からは痛みからか、涙が溢れていた。
「まだ死ねない……シエルを助けなきゃ……」
至宝の誘いに身を委ねてはならない。意識を壊されてはならない。シエルを助けるまで、死ぬわけにはいかない。
そして『あの人』が言った。必ず生きて帰って来い、と。このまま終りにはしたくない、と。待ち受ける絶望と、失望の後、彼の元から姿を消すことになっても、エステリアはもう一度、シェイドに、シエルに、逢いたいと思った。とりわけシエルには、あの輝くような笑顔を見せて欲しいと……。
「お願い、一瞬だけでいいから……あと少しだけ……本当にあと少しだけでいい。大切な人を救うまででいい……、あの人に逢えるまででいい……。その後、私の命を奪ってもいいから……お願い、言う事を聞いて、私を受け入れて……」
エステリアは苦悶しつつも、至宝をその胸に抱きしめた。
至宝が強い光を放つ。それに伴ってエステリアの鼓動が跳ね上がる。
心臓が潰れてしまう、と思った。しかし、エステリアの胸元に、小さな青い光と緑色の光が宿る。おそらくは胸元にしまった至宝の一部が、至宝の本体に呼応しているのだろう。エステリアは銀の額環をその二つの光の元へと導いた。一瞬、至宝の鼓動が聞こえたような気すらした。額環はさらなる光を放ち、そこに埋め込まれた赤い宝石と黄色い宝石が輝きを強める。残された至宝の一部も同様であった。至宝の光に包まれ、エステリアは自分の身体が温かくなるのを感じた。身体の自由を得たエステリアは懐から至宝の一部を取り出し、額環の中に埋め込んだ。完成された至宝が、天に向かって閃光を放つ。その光が収まると同時に、エステリアの手の中には、額環がすっぽりと納まっていた。
「許してくれたの?」
エステリアは物言わぬ至宝に思わず問いかけた。許す、というよりは、一種の契約が成立したのかもしれない。
自分の望みを叶えたその時こそ、至宝はエステリアの魂を引き裂き、奈落へと連れ立つ……という契約を。それでも構わないと、エステリアは思った。目的を果すその時まで、生きることが許されるのなら。エステリアはほっと息をついた。これまでの苦痛がまるで嘘のようであった。
急いでこの至宝を持ち帰り、人質にされているシエルを救わなくては――先程、辿った水路を引き返さなくてはならない。至宝を片手に、エステリアは踵を返した。しかし……、
突如として、ひとりでに重い扉が閉じる。
「え?」
エステリアは慌てて扉を開こうとした。だが、扉はびくともしない。まさか、外側から誰かに閉められたのだろうか?――先程までの微かな希望が瞬時に絶望へと変わる。
どこか、別の出口は?――エステリアはうろたえながらも、周りを見渡した。その刹那、壁の一部が抜け、乾いた音を立てて床に叩き付けられる。抜けた壁を見上げると、そこから勢いのある水が部屋中に流れ込み始めた。
「なに!?」
エステリアが驚く間に、次々と壁が抜け、そこから同じように水が注ぎ込まれる。エステリアは思わず手にした至宝を凝視した。神子以外が至宝を手にすれば、天罰が下る。または仕掛けられた罠が働いて、狼藉者を殺す。今になってエドガーから耳にした言葉が蘇る。
つまりは、エステリアを至宝が与える天罰――苦痛に耐えたところで、今度は狼藉者であると判断した『至宝の間』が、自分をこのまま溺死させようとしているのだ。そう考える間にも、水嵩は増し続け、エステリアの首にまで迫っている。せっかく至宝を手にしたのに、やはり自分はここで死ぬことになるのか……エステリアは悔しさで唇を噛みしめた。
ここを泳いで抜け出そうにも、出口がないのだ。光が差し込んでいたあの窓さえも、どんな仕掛けが働いたのかはわからないが、たった今、内側から鎧戸が下りてしまった。神々しかったはずの至宝の間が途端に闇に閉ざされる。後は、この暗闇の中で、絶望と共に溺れ死ぬだけだ。
助からないとわかっていても、エステリアは息を思い切り吸い込み、しっかりと至宝を握り締めた。これだけは、なんとしても手放したくはなかった。
水嵩は瞬く間に、エステリアの頭上を越えていく、エステリアは呼吸を止め、その中でもがいた。
激しい水流に巻き込まれて、身体が水の中を上下する。
苦しい――とてつもなく苦しい――。
我慢すればするほどに、肺が痛む。そこに溜め込まれた熱い吐息が、たまらずエステリアから吐き出された。その際に飲んでしまった水が、呼吸を困難にする。
死にたくない――。エステリアは生への執着を見せ、至宝を手にしてない方の手をばたつかせた。
それでも出口など、ここにはない。
誰か……助けて……。
エステリアは心の底から助けを求めた。しかし、この場に駆けつけてくれる者などいるはずもない。

心が悔しさと、一人死に行く寂しさと、悲しさに苛まされようとしたそのとき……
「初めまして、私のエステリア……」
不意に慈しむような、とても優しい声が聞こえた。
「もう少し、大きくなったら、私と一緒に……」
途切れた声と共に、一瞬であったが、一枚の葉よりも小さい赤子の手に、人差し指を絡ませた女性の繊細な手が見えた。何より、この声には聞き覚えがある。それは、ナイトメアが見せた幻の中で、耳にした声と同じものであった。エステリアにはこの女性の正体がすぐにわかった。そう、若き日のマーレだ。
この期に及んで、どうしてこのようなものを見てしまうのか、自分自身が、理解できなかった。思えば、神子に選ばれたその時から、エステリア自身、奇妙な夢を見るようになった。いいや、それだけではない。自分の中に他者の存在を感じることもあれば、誰かの記憶がそのまま身体の中に流れ込んでしまうことも多々あった。その一部は、自分の願望が具現化したものなのかもしれない。
もう諦めたはずなのに、憎しみにすら変わっているはずなのに、それでも母親に愛されたかったという願望は、ここでもエステリアを苦しめる。死ぬ前の人間は、これまでの人生の幻を省みることができるというが、これはその一種なのだろうか? だとすれば最悪だった。
もう誰も、私の心の中に入ってこないで――水の中で、苦悶しながら、エステリアが目を見開いた直後、闇と水に満たされたこの空間に、火花が散るように古代文字が浮かび、陣形を成した。
これは何かの術式だろうか? ああ、そうだ、きっとこの術で、自分の身体は八つ裂きにされ、消失するのだろう。神子でもないのに、至宝を得ようとした報いなのか。
だとすれば随分と徹底したものだ……エステリアがそう思った矢先、その陣形が光を放ち、エステリアを閉じ込めていた至宝の間の壁が打ち砕かれた。大穴の開いた壁から一気に水が排出される。その水流に巻き込まれるようにしてエステリアの身も、外へと投げ出された。
地下水路から入った至宝の間、ことカルディア城の小塔の真下には、深い堀がある。小塔に溜め込まれた水によって身体が浮上し、そこから逆さまに掘へと落ちればまず助からないだろう。
エステリアは、己の身がゆっくりと落下し、そして何故かふわりと舞い上がるのを感じながら、意識を手放した。最後に、一瞬、黒い翼を目にしたような気がした。




至宝の間の壁を外側から打ち砕き、エステリアを救い出したのは――奇しくもエステリアが忌むべきあの妖魔であった。オルフェレスは、ぐったりと弛緩したエステリアの身体を、城の堀から離れた場所に移した。
有無を言わさずに唇を重ねて息を吹き込むと、エステリアが即座に、飲み込んだ水を吐き出した。
まだエステリアには息はある。そう確信したオルフェレスは、エステリアの背に手を当て、自分の魔力を送り込んだ。エステリアの身体に力が馴染めば、水の中で冷え切った身体も、温まり、じきに息を吹き返すことだろう。力を送り込みながら、オルフェレスはエステリアの手元に視線を落とした。
エステリアは、意識を失ってもなお、しっかりと至宝を握り締めたまま、離そうとしない。
「あんなもののために、命までかけるとは、つくづく、馬鹿な女だ……」
眠るエステリアの頬に張り付いた髪を払い除けながら、妖魔は呟くと、
「それでも……私は愚かなお前が愛しい」
エステリアの冷たい唇に口付けた。
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