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EternalCurse

Story-46.闇の夜-U(ダーク・ナイト)
「シェイド……」
エステリアは左手の黒い指輪を見つめた。
ナイトメアの鎧――すなわち本体に触れたとき、この指輪が一瞬光ったはずだ。シェイドは魔除け代わりにこれをくれたが、指輪の力がこの闇の中まで自分を導いたのだとしたら……間違いない、指輪はただの魔除けだけに止まらず、魔剣と密接な関係にあるのだ。
もしかしたら、この力を使ってシェイドを目覚めさせることができるかもしれない。
エステリアの胸に小さな希望の光が灯る。しかし、彫刻のように眠るシェイドの背後では、ナイトメアが赤い目を光らせ、威嚇するようにエステリアを見下ろしている。

あの魔剣の怒りをなんとか鎮めないと――エステリアはリリスの言葉を思い出した。
リリスは、ナイトメアに怒りの感情を含ませた魔石を植えつけたという。それによってナイトメアが暴走したのだ。ならば、まずはそれを見つけ出し、取り除くことが先決だった。
しかし、ナイトメアはエステリアよりもずっと高い位置にいる。近づくためには、この磔台を登らなくてはならない。エステリアは難色を示した。
以前のように霊力を意のままに操れることができたなら、直接、磔台に力を送り込んで、反応を見ることができたものを――エステリアが唇を噛みしめる。

「お前が私を信用してくれならば、手を貸そうか?」
「貴方の言葉なんて聞きたくない。信用できない。私の手助けをするふりをして、今度は私から何を得ようとするの?」
「随分と言ってくれるものだな。そんなに自ら契約の対価を払いたいのか? そのようなことを言えば、私がお前に何を求めるか、わかるだろう?」
「私の身体が欲しいっていうの? 私を従属させて弄んで何が楽しいの? 私、ミレーユさんを殺した貴方の力なんて、絶対に借りたくない。貴方の力を借りて助かったなんて、他の人には口が裂けても言えないもの」
「ミレー……ユ?」
妖魔が眉を潜めた。
「三年前、貴方に殺された――この人が大切にしていた女性よ!」
「ああ、あの『糧』のことか」
何かを思い出した妖魔が軽く息をつく。
「私にとって、お前以外の生き物は、ただの『糧』に過ぎない。そのミレーユとかいう女も、例外ではない。人間の血肉、そして魂だけが、私の身体を満たす。そして――」
言いかけた妖魔が口をつぐむ。磔台に手を伸ばしかけたエステリアを見て、険しい表情をすると、再び口を開いた。
「止めておけ、お前もナイトメアの餌食になりたいのか? お前も、心に少なからずの闇を持っているのだろう?その隙を突かれれば、お前まで一緒に取り込まれてしまう」
妖魔が指摘する闇については、エステリアも心当たりがあった。自分もシェイドと同じく、実の母親については、複雑な感情を抱いている。しかしエステリアはきっぱりと言った。

「光栄よ。貴方の奴隷になるぐらいなら、この人と一緒に闇に堕ちたほうがましだわ」
妖魔がやれやれと言わんばかりに、肩をすくめた。
「……そんなにそいつの事が好きなのか?」
「ええ、そうよ。全てに見放された今だから、はっきり言えるわ」
心底、愛しているのか、と問われれば、正直、そこまで言い切れる自信はない。けれども好意を抱いていることは確かだった。声を震わせそう言うと、エステリアは磔台に触れた。その瞬間、ナイトメアの瘴気が磔台から伝わってきたのだろう、気味の悪い感覚がエステリアを襲う。
「目を覚まして……シェイド」
直接、あの場所まで手を伸ばすことが出来たなら――瘴気に苛まされながらも、エステリアはシェイドを見上げ、語りかけた。
「戻ってきて、シェイド! 貴方……こんな闇に簡単に負けるほど、弱い人間じゃないはずでしょう?」
「何故、そう言い切れる?」
「え?」
エステリアが妖魔の方に振り向いた。
「お前はこの者の何を知っている? この者が弱くないと、どうして言い切れる? お前の知らぬところでは、人知れず苦しんでいるかもしれぬというのに。ただ、自分の弱さや脆さを他人に見せたくない一心で、一人、耐えていただけかもしれんのだぞ?」
確かに妖魔の言うとおりだ。エステリア自身、シェイドの口から、その出生の秘密や、親子関係に関する悩みを打ち明けられるまでは、彼は苦悩や迷いといったものとは無縁の存在だと、本気で思っていた。
「さぁ、エステリア。この者はもう捨て置け。お前一人だけならば、私は連れて行ける」
「言ったでしょう? 貴方の手だけは絶対に取らない。それに、シェイドをこのままにしておいていいはずがないもの」
磔台に手を置くだけでも、ここまで不快な瘴気が伝わってくるのだ。ナイトメアに取り付かれたシェイドなどは、それ以上に一溜まりも無いだろう。エステリアは眠るシェイドの姿を見上げると、指輪を嵌めた手をナイトメアへと向けた。
それを目にした途端、ナイトメアが唸り声を上げ、エステリアに向けて、赤い妖気の矢を放った。
その矢から庇うようにして、妖魔がエステリアの身体を押し退ける。妖気の矢は妖魔に届く寸前のところで、次々と消滅していく。妖魔の掌に、魔力が収束した。
「やめて! そんなものをナイトメアに放ったら、シェイドまで傷つけてしまうわ!」
そのままナイトメアに向けて、放とうとする妖魔の腕をエステリアは慌てて掴む。その刹那、エステリアの中に、ナイトメアとはまた違った妖魔の闇が流れ込んでくる。その異様な感覚に、エステリアは戸惑いつつも、妖魔を睨みつけると、
「どういうつもり? 私に情けなんてかけないで」
ナイトメアの攻撃から救ってもらったにも関わらず、妖魔に冷たい言葉を返した。
「つれないものだ。お前の魂だけが、唯一、私の心を満たすというのに……」
「買いかぶりね。私には貴方を満足させるような魂なんて持ち合わせてないわ。本当の私は臆病で、いつも誰かの言いなりなの。利用されているってわかっていても、下手に自分を出して、失敗するのが嫌だから、いつも『仕方ない』って、常に自分に言い聞かせているわ……」
「良い心がけだ。ならば、いい加減に観念して、私との契約を受け入ればいいものを。運命に逆らったところで、何も変わりはしない。何故わからない?」
「わかりたくもないわよ、そんなもの。それだけは『仕方ない』で済ませるようなことじゃないわ。貴方なんて嫌い。そして……貴方を受け入れてしまった私自身も……大嫌い」
エステリアは続けた。
「私……いつも誰かに期待されて、同時に失望されて、そんな毎日が嫌で、嫌で堪らない。それなのに、私の意志とは関係なしに、神子なんかに選ばれて……いつでも投げ出したい、逃げ出したいって思っていたから、神罰が下ったわ。貴方という闇に、私は簡単に取り込まれてしまった。でも、闇が安息をくれるのは、眠るときだけよ。それでもいつも満足のいく夢を見せてくれるわけじゃないわ。何の癒しにもならない。この人だって、シェイドだって、きっとそう。辛い現実から逃げ出して、ナイトメアの中で眠っていたって、これは悪夢しか見せてくれないのよ?」
それは、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。
「苦しいけど……辛いけど、行かなきゃ。だから、私はこの人と一緒に、ここを抜け出すの。絶対に」
妖魔は呆れるように肩を落とした。その直後、エステリアの身体がふわりと宙に浮いた。
「え? ちょっと……何?」
「……好きにするがいい」
エステリアの身体は妖魔の術によって、その場を離れ、高く舞い上がっていく。
「お前が…………なら、私は……」
妖魔の呟きを最後まで聞き取ることなく、エステリアの身体は、シェイドと彼を束縛するナイトメアの目の前で止まった。ナイトメアはエステリアを威嚇して牙を剥く。
その怒りの根源とも言える魔石の在り処を探り当てようとしたエステリアの腕を、ナイトメアの爪が傷つけた。
切り裂かれたドレスの袖に滲んだ血が、大きな染みを作っていく。焼けるような痛みを堪えながらも、エステリアは赤い妖気を燻らせるナイトメアの身体に目を凝らした。
「これは……」
ナイトメアの身体の中に、青と紫色の微かな輝きを見つけた。それがシェイドに譲った紫水晶(アメジスト)菫青石(アイオライト)が放つ光であると、このときのエステリアにはすぐに理解できた。

――少しでも貴方の心が安らぎを得るように、眠れるように。それから本当の貴方を取り戻せますように――エステリアは、この石に願をかけた時の自分の言葉を思い出した。
そう、石の中には、あの時に使った自分の力がまだ残っているはずだ。
一か八か……この天然石に呼びかければ、そこからナイトメアを浄化できるかもしれない。エステリアは指輪を嵌めた手を伸ばし、ナイトメアの身体の中に沈めた。
紫と青色の光を放つ石を探ると、その手にしっかりと握り締めた。ナイトメアが苦痛に身を捩じらせる。
所詮、自分は堕落した神子に過ぎない。この願いを聞き入れてくれるならば、身命を賭することになっても構わない――エステリアは瞳を閉じて、強く念じた。
ナイトメアが断末魔のような叫び声をあげ、同時に身体の内側から、さらに強い光が放たれた。





もう、どうでもいい――深い闇の中で、シェイドはずっとそう考えていた。
陵辱の末に宿った子供――いや、それだけではない。なんという運命のいたずらか、実の親子による禁忌の交わりによって生を受けたという悪夢が、今もなお、自分の肉体をナイトメアに縛り付けている。魔物が与えるひどい倦怠感に、生きていく気力すらわかなかった。

魔剣の弱点は、あの赤い眼――猫目石だ。
ナイトメアが鎧と化したならば、胸についたあの石を――そう、この心臓ごと貫いてくれるだけで、全てが終る。
それを知っていてか、ヴァルハルトは極力、胸への攻撃を避けていた。剣の実力ならばシェイドをはるかに上回るにも関わらず、だ。
どうせ憎い相手の息子なのだから、情けなどかけずに、ひと思いに殺してくれればいいものを。

正直な話、今更、現実に戻りたくはなかった。いや、どちらにしても戻れなかった。

それなのに、あの『お人よし』は、あろうことか指輪の力を使って、ここまで追いかけてきたのだ。
相変わらず、誰かが傍についていないと、危ない真似ばかりをする――深い闇の中で、自分を助けようと必死になるエステリアの姿を前にして、シェイドは思った。

馬鹿な奴――自分だけでも助かる手立てなら、目の前にある。早く妖魔の手を取ってしまえばいいのに。わざわざ怪我をしてまで助ける価値など、自分にはないというのに。

それでも、エステリアをこのまま放っていくわけにもいかなかった。それは今回に限らず、いつものことなのだが。

先程耳にしたエステリアの言葉を、シェイドは頭の中で反芻した。

苦しいけど……辛いけど、行かなきゃ。だから、私はこの人と一緒に、ここを抜け出すの。絶対に。

その言葉は、それといった愛の告白、求婚の返事というわけでもない。

それでもこの四肢の自由を奪う、倦怠という枷を取り外すには、充分過ぎるほどの威力があった。
そもそも、このナイトメアの束縛から逃れられない原因は、全てを諦めて、ここに留まろうとしている自分の意思にもあったのだ。
しかし、今、この時、暗闇の一部が裂け、そこから眩い光が流れ込んでくるのがわかる。エステリアの声が聞こえる。

そうだ……もう、戻らなくては――。

やっぱり、あいつは放っておけない――目の前でエステリアが呼んでいる。シェイドはゆっくりと瞼を閉じた。






闇の空間が音を立てて崩れていく。その刹那、エステリアは礼を述べるシェイドの声が、心の中に響いた気がした。

あの人は無事に現実に戻れたんだ――胸を撫で下ろすも、エステリア自身の身体は、崩れ行く闇の中をゆっくりと下降していた。

ああ、やっぱり駄目だったんだ――エステリアは小さな溜息をついた。
あの二つの天然石は、シェイドを救ってはくれても、この身をここから脱出させるまでには至らなかった。いや、シェイドだけでも助かったのだ。それでよしとしよう。魔女と変わらぬこの身でも、願いを聞き入れてくれたのだから、ほとんど奇跡といってもいい。自分だけがここに取り残されたとしても、文句は言えない。

けれど――もう誰も助けには来ない。
ここから脱出する術を持っていたのは、妖魔しかいないはずだ。その救いの手さえも、自ら突き放した。
残された闇の欠片がエステリアを侵食していく。

仕方ないわよ、自業自得だもの、私の……悪い、癖……ね――

手足の自由が奪われ、思考も徐々に麻痺する中、エステリアは自嘲的に笑った。


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