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EternalCurse

Story-45.闇の夜-T(ダーク・ナイト)
もう随分と眠っていたような気がした。
ゆっくりと瞼を開けたエステリアの視界に飛び込んできたのは、一面の『闇』だった。
「ここは……どこ?」
確かに自分は、王妃を殺そうとするシェイドを止めようと、無我夢中で彼の身体に飛びついた。その瞬間、指輪が赤い光を発したところまでは覚えているが、その後の記憶が全く無い。
あれからどうなったのだろう……シエルは? ガルシアは?――周囲を見渡しても、そこは延々と続く闇で、仲間の姿などどこにもない。エステリアが戸惑っていると、闇の中の一部が、ぼんやりと明るくなる。

「黒い……悪魔……」
その光の中には、恐怖に顔を引きつらせたソフィアの姿があった。それもまだ若い。
ソフィアの眼差しは、黒い甲冑に身を包み、赤い眼を爛々と輝かした騎士の姿を捉えている。

シェイド――!?
エステリアは直感的にそう思ってしまったが、その騎士は、ナイトメアの鎧を纏った背格好こそ似ていたが、シェイドとは全く異なる髪の色をしていた。その鋭い眼光と灰色の髪には見覚えがあった。そう、この闇の騎士は、シェイドと変わらぬ年頃の――ヴァルハルトだ。
「お願い、どうかお命だけはお救い下さい」
ソフィアが禍々しいヴァルハルトの姿に怯えていたかと思うと、急に場面が変わった。
いつの間にか、ソフィアはヴァルハルトの前に跪き、命乞いをしている。ソフィアの背後には、三十代後半ともいえる身なりの良い男の姿があった。
「何故、庇い立てする?その男は、お前を……」
ヴァルハルトは右手と同化し、血を滴らせた剣を男の方に向け、どうしようもない怒りと屈辱に顔を歪めた。ヴァルハルトが討とうとする男の髪と瞳の色は、青みがかった黒。そして二人の会話から、彼がヴァロア皇帝、アイザックであることを、エステリアは察した。
それと同時に、ヴァルハルトがたった一人で、ヴァロア帝国を一夜にして滅ぼしたという、神がかりな逸話にも合点がいった。そう、ヴァルハルトは怒りに任せ、ナイトメアの力を使ったのだ。

「お願いします……ヴァルハルト。この皇帝は……アイザックは、私の実の父なのです……」
ヴァルハルトが目を見開く。そしてそれ以上に、陵辱したにも関わらず、敵国の王妃に身を挺して庇われた皇帝は、衝撃を受けていた。ソフィアはアイザックの方へ振り返ると、声を震わせながら語り始めた。
「シャルロット・ベルトワーズという女をご存知でしょう? 貴方が皇太子時代に見初め、捨てた貴族の娘……私の、母です」
知らぬまま、己が実の娘を陵辱するに至ったという事実に、ヴァロア皇帝は、震える両手で顔を覆うと、発狂するかのような叫び声を上げた。

その直後、まるで蝋燭の灯を吹き消すかのように、これまでの光景が消え、今度はエステリアの真横に、別の空間が浮かび上がる。

そこには、寝台に横たわり、幽鬼のように青白く、憔悴しきったソフィアの姿があった。その傍らには、ヴァルハルトがいる。二人の年齢は、先程見た幻とほぼ変わっていない。
「随分痩せたな。ソフィア」
「申し訳ありません。陛下」
「悪阻がひどいと聞いた。私にはどうにもできぬが、何か欲しいものはあるか?」
「いいえ。なにも」
ソフィアが力なく首を振る。
「そうか……どうか労わってくれ。私にとっても初めての子ゆえ」
そこまで言うと、ヴァルハルトは部屋を出た。夫が去った後、視線を宙に泳がせながら、ソフィアは下腹のなだらかな隆起を撫でたかと思うと、掻き毟るように爪を立てた。

いっそ、このまま、死ねたらいいのに……。

王妃の声がエステリアの中に響いた。

子供が生まれたら、すぐに殺して……私も死のう。私のような女は、あの人には、相応しくないのだから――私達は……生きていてはいけないのよ……。

胸が張り裂けるような想いが、エステリアの中に流れ込む。その苦痛にエステリアが思わず瞳を閉じると、
「あら?どうしたの? 眠れないの?」
「うん……」
今度は別の女性と子供の声が聞こえた。エステリアが目を開けると、寝台の王妃の姿は消え、代わりに、もうじき四十代に入ると思われるブランシュール夫人が立っていた。その正面には、黒髪の男の子が佇んでいる。シェイドだ。
「しばらくは、国やご両親が恋しいと思うけど……じきに慣れるわ。それともお腹が減って眠れないの? 何か持ってこさせましょうか?」
「大丈夫。お腹は減ってない」
幼いシェイドは頭を振った。
「ねぇ、ソニア夫人……」
「私のことはソニアでいいのよ? ジークハルト殿下」
「じゃあ、僕のこともシェイドって呼んで。ここでの僕の名前は、シェイド・ブランシュール。そうでしょう?」
黒曜石のような大きな瞳が、ソニアを見上げる。シェイドが訴えかけようとしていることを察した夫人は、やんわりと言った。
「寂しいなら、一緒に眠りましょうか? 勿論、貴方さえよければ」
「寂しくないよ。城でもずっと一人だったから」
小さな拳を握り締め、シェイドは目を逸らす。
「シェイド、貴方は本当に強い子ね。でも、ここはお城ではないわ。貴方は、私の……私達夫婦の子供になったの。我慢しなくてもいいのよ?」
それでもシェイドは硬直したまま、沈黙している。夫人は肩を落とすと、踵を返した。おそらくは夫に相談しようとしたのだろう。そんなソニアのローブをシェイドの幼い手が掴んだ。
「ごめんなさい……ソニア。……やっぱり、一人ぼっちは嫌だ」
じっと耐えていたものを吐き出すかのように、シェイドは言うと、少し丸みを帯びてきた養母の身体にぎゅっと抱きついた。
「ねぇ、ソニア。明日からは……母上って呼んでもいい?」
すがりつく幼いシェイドは、まるで捨てられ、傷つけられた子犬のような目をしていた。

エステリアは、居た堪れぬ思いで、それの様子を見守っていると、不意にこちらへ近づいてくる足音が聞こえた。
こんな暗闇の中に、一体誰がいるというのだろう?――エステリアは足音が聞こえる方に目を凝らした。
「まさか、こんなところでお前に会うとは思ってもみなかった」
闇の中から現れたのは、あの銀髪の妖魔だった。
「どうして……貴方がここにいるの!?」
妖魔の姿を目の当たりにした瞬間、エステリアの表情が凍りついた。
「愚問だな。ナイトメアとは元々私の眷属。その暴走によって、主たる私が召喚されたところで、なんら不思議なことはない。実に迷惑な話だ」
何事もなかったかのように、さらりと言ってのける妖魔をエステリアは睨みつけた。
「仮にも神子が、他者を憎んでいいのか?」
「私には、そんな資格も力もないわ」
それを奪ったのは、紛れもないこの妖魔と、自身の弱さだ。妖魔は押し殺したような声で笑った。
「ああ、そうだとも。お前に私が殺せるものか。お前はもう、私なしでは生きてはいけない。そういう身体だ」
言われてエステリアの顔が、恥辱で赤く染まり、身体中が熱くなった。
それは、魔物と契約を交わした女は、二度と人間とは交わることなど出来ない――と、改めて知らされているようなものだった。現にエステリアは、この妖魔を前にした途端に、身体の奥底に、なんとも言い難い疼きを覚えていた。
いやらしい身体だ――エステリアは嫌悪感を露わにして、自身の身体を抱きすくめた。
心は屈辱と絶望で満たされているというのに、身体は妖魔との甘くも激しく、倦怠に支配されたあのひと時を、再び欲している。
「そういう運命だ」
妖魔の赤い唇が、囁く。
「ここは……一体どこなの?」
妖魔の話には耳を貸さぬようなふりをして、エステリアは蚊の鳴くような声で尋ねた。
「ナイトメアの闇の中」
「じゃあ……皆は?」
「ナイトメアの暴走に居合わせていたのなら、お前の仲間達も同様に取り込まれ、各々が抱く悪夢に苛まされていることだろう」
「そんな……」
エステリアが落胆したときだった。

「すごく綺麗な剣ね」

ふと、女性の声がした。
気がつけば、また闇の中に、とある光景が映し出されている。声の持ち主は淡い桃色のドレスを纏い、カナリアのように明るい金髪を結い上げた、貴族の娘だった。
彼女の眼前にはシェイドがいる。
シェイドは魔剣に触れようとした娘の手を、優しく払い除けた。
「だめだ。危ない」
「危ないって……?」
まるで栗鼠のように茶色く愛らしい瞳が、シェイドの顔を覗き込む。
「この剣は、触れた人間の命を奪う。だから触らせるわけにはいかない」
しかし娘は平然とした様子で答える。
「貴方に殺されるのなら、私は本望だわ」
「物騒な冗談はやめてくれ。ミレーユ」
「勿論、冗談よ。からかってみただけ」
ミレーユと呼ばれた娘がクスクスと笑う。シェイドもそれにつられて破顔した。
初めて見るミレーユの姿と、今まで見たことがないほどに、優しく笑うシェイドの幻を目にしたエステリアの心に、寂しさが過ぎった。



「魔剣の記憶……」
隣でその光景を見ていた妖魔が呟いた。
「これまでこの魔剣が見てきたものが、そのまま闇の中に投影されているようだな」
「記憶?」
エステリアが訊き返した直後、
「貴方が、お城からの使者ですか?」
後ろの方から聞こえた『自分の声』に、エステリアは驚き、振り返った。
そこに映っていたのはマナの集落だ。
「ああ。話はもう聞いていると思うが、城からの達しが下った。貴方が大巫女のエステリアで間違いないか?」
馬から下りたシェイドが尋ねる。この時、彼のことを端整な顔立ちの青年だと思ったことを、エステリアは今も覚えている。
「はい。私がこの集落で大巫女を務めております。エステリアと申します」
「そして、貴方が次代の神子として選ばれた」
「……はい」

――なんだ。思った以上に、おっとりした娘じゃないか。こいつ……大丈夫か?

シェイドがその時、エステリアに抱いた印象が、ソフィア王妃のときと同じく、エステリアの心に直接流れ込んでくる。
「何よ……それ」
出会いの一場面を客観的に見ていたエステリアが脱力した。
「どうやらお前は、そいつにとって、随分と期待外れな神子だったらしいな」
エステリアはむっとした表情で、嘲笑う美しい妖魔を見上げようとして、すぐに目を逸らした。
このようなことではいけない――何故か一瞬、妖魔に心を許しかけた自分に腹が立った。妖魔は自分にとって憎い敵であるのだ。飼い慣らされてしまうのだけは御免だった。
「一体、お前は何をふて腐れている?」
先程から、妖魔のあまりにも開き直った言い草に、エステリアは吐き捨てるように言った。
「貴方、私を馬鹿にしているの? 今更、そんなことを聞かなくたって、貴方にならわかるはずでしょう? いい加減にして」
「それなら最初に言ったはずだ。私はお前を手に入れる――と」
まるで『それがどうした?』と言わんばかりの口調である。
「私は、それが必要と思ったものならば、どんな手段を使ってでも手に入れる。それがお前だったというだけだ」
腑に落ちないという顔で睨みつけるエステリアを妖魔が一瞥する。
「さて、つまらぬ話は止めて、まずはあれをどうすべきか」
「あれ?」
首を傾げるエステリアを妖魔が鼻で笑った。
「お前にはあれが見えないのか?」
妖魔に言われるがまま、エステリアが目を凝らして見ると、闇の中に、一本の柱を見つけた。
このような空間に、どうして柱が存在するのだろう?――そんな疑問を抱きつつも、エステリアはその柱をゆっくりと見上げ、そのまま硬直した。
「シェイド!?」
柱と思っていたものは、巨大な十字架だった。
そこには女性型のナイトメアを背後にして、まるで磔にされた聖人のように、シェイドの身が封じられている。
「呼びかけても無駄だ。あれはただの抜け殻だからな」
「抜け殻?」
「あの者の魂は別のところにある。いや、ナイトメアに捕らえられ、何もかも拒絶して、深い悪夢の底に閉じこもっていると言った方が正しいか……」
目を細め、妖魔が言った。
「一体どこに?」
「無力なものだな。お前は闇の因果に縛られた哀れな魂の行方すら掴めぬというのか」
「無力でも、無能とでも、私のことなら何とでも言えばいいわ。貴方はあの人の魂の在り処を知っているんでしょう? 勿体ぶらずに教えたらどうなの?」
まるで小動物が、百獣の王を相手に必死に身を奮い立たせて牙を剥こうとしているような、エステリアの態度に、妖魔はうっすらと笑みを浮かべる。
「在り処を知ったところで、お前に救えるのか? 頑なに閉ざした、あの者の魂を」
「それは……」
「どうせ現世に戻ったところで、あの者に待ち受けているのは、血族の疑念と醜い権力争いだ。くだらない。いっそこのまま眠らせてやればいい。闇と共に永久に生きた方が、真の安息も訪れるというもの」
「でも! 闇に捕らわれて幸せなわけがないでしょう?」
「ならば、どうやって救うというのだ? お前自身、ここから脱出する術すら知らぬというのに」
「貴方は、抜け出すことができるというの?」
「言ったはずだ。ナイトメアは私の眷属だと。私はやろうと思えば、ナイトメアを痛めつけて、自力で脱出することができる。お前一人を残してな」
それをせずに妖魔がここに残っているということは、彼にエステリアを見捨てる気はないのだろう。
「そう……だったら、私の前からすぐに消えればいいじゃない」
しかしエステリアは、妖魔を冷たくあしらうと、シェイドを縛る十字の磔台の前まで歩み寄った。
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