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EternalCurse

Story-40.別離
厚いカーテンの隙間から零れる僅かな光と、どこか遠くで聞こえる小鳥のさえずりで、イザークは今が朝であることを知った。ここに臥せるようになって、一体、どれぐらいの月日が経ったのだろう。薄暗い部屋に閉じ込められ、同じ天井を見上げる毎日が、イザークから時の感覚を奪い、麻痺させていた。
早く元気になって、外に出たい。馬に乗って、駆け回る姿を見せれば、きっと母も喜んでくれるはずだ。とびきりの笑顔をこちらに向けてくれるに違いない。
そのためにイザークは、きちんと食事をして、苦い薬も我慢して飲んで、安静にしているのに、身体はなかなか答えてくれない。
母は勿論、イザークの周囲には、自分の快復を心より待ち望んでくれている多くの家臣がいるというのに、だ。
周囲の期待に答えることができない、その口惜しさにイザークは、小さな唇をぎゅっと噛みしめた。

そんな矢先――部屋の窓を、突風が襲った。
大きな音を立て、窓が次々とひとりでに開いていく。そこから吹き抜けた風は、重苦しいカーテンを舞い上げた。次の瞬間、ここに巣食った病魔を一掃するかのような光が部屋中に降り注ぐ。

「うわっ……」
久しぶりに感じた光の眩しさに、イザークは、思わず両手で目を覆った。
清々しい空気が、部屋の中に篭っていた薬湯の臭いを吹き飛ばし、浄化していく。
突如として闇から光へと反転した世界と、懐かしい風の香りに、イザークは、思わず涙が出そうになった。

誰かを呼んで、閉めてもらわなきゃ――開きっぱなしの窓を見つめ、ほんの少しだけの『奇跡』に感謝をして、ゆっくりと身を起こそうとしたイザークの身に大きな影が落ちた。

「こんなじめじめした部屋にいたんじゃ、治る病も治らなくなってしまうわ……」
一体どこから入ってきたのだろう?見上げると寝台の傍らに、女性の姿があった。
勿論、母親ではない。
しかし、イザークはこの女性を純粋に、綺麗な人だと思った。腰にまで届く長い髪は今しがた差し込んだ陽の光を受けてキラキラと輝き、その輪郭を縁取っている様は神々しく、まるで女神のように思えた。
「お姉ちゃん、誰?」
「貴方のお母様のお友達よ」
女性の返事に、イザークはしばらく考え込むと、何かを思い出したようにもう一度、尋ねた。
「じゃあ、もしかしてお姉ちゃんが、リリスっていう人?」
「そうよ。貴方、とっても賢いのね。私、そういう子は大好きよ」
その褒め言葉にイザークはぱっと表情を輝かせた。
「いつもお母様に力を貸してくれてありがとう。貴方のことは、お母様から聞いてる。貴方の言う通りにしていれば、きっと僕の病気も治るんだって。王様にもなれるんだって……。そうだよね?」
リリスは優艶に微笑んだ。
「そうね。貴方の病は、もう一度眠ればきっと治るわ。いいえ、治してあげる。貴方は私の言う事が聞ける?」
病が治る――イザークはそれを聞くなり、即座に頷いた。
「じゃあ、そのまま瞼を閉じて、じっとしていてくれる?」
「うん!」
優しく語りかけたリリスは少し屈むと、ぎゅっと目を瞑って待つイザークの小さな唇に、接吻を落とした。
それと同時に、イザークを強烈な睡魔が襲った。
意識が遠のき、身体中に残っていた僅かな力さえも全て抜け落ちていく――浮遊感にも似たその心地よさに身を委ね、イザークは静かに瞼を閉じた。
ぐったりとしたイザークの身体を、再び寝台に横たえ、リリスは囁いた。
「おやすみなさい、永遠に」



「毎日、毎日、突然のことで申し訳ないが、今日の夜会で国王から至宝を賜れるそうだ」
今しがた仕立屋が届けたドレスに袖を通し、部屋から出てきたエステリアの姿を眺めながら、シェイドは国王からの旨を伝えた。
「そう……」
目も合わせぬまま、あまりにも素っ気無く答えたエステリアの様子に、シェイドがなにやら訝しげに眉を潜める。
その瞬間、エステリアはしまった、とばかりに顔を上げた。
役目を終えるときまでは周囲を欺き通す――先日そう誓った側から自分がこんな調子では、後が持たない。
「ご、ごめんなさい。こういうのに慣れてないから、ちょっと息が苦しくて」
エステリアは無理やりその場を取り繕うように、コルセットの部分を押さえ、ぎこちなく笑った。
「衣装が合わないんだったら、今のうちに仕立屋に言って直してもらうといい。夜会中に呼吸ができずに卒倒されると困るからな」
「ええ。でも大丈夫、きっと夜会までには慣れるわよ」
「じゃあ、一体、何が不服なんだ?」
「え?」
「やっぱり、城での生活が窮屈になってきたか?それともクローディアかユリアーナに、何か言われたのか?」
「ううん、そんなことはないわ。お城では、美味しい物を食べさせてもらったり、こんなドレスまで貰ったり……本当に良くしてもらっているし、感謝はしても不服なんて……」
もしもこの城での不満があるとしたら、それは『求婚』の件ぐらいだ。
さすがに面と向かって、これを本人に言えるはずもなく、口ごもったエステリアはドレスの裾に視線を落とした。
国王との謁見を済ませた後、押しかけてきた仕立屋によって、いきなり寸法を測られたことは記憶に新しい。
仕上がったドレスは、白い絹繻子に銀糸で薔薇の刺繍がされており――まさに『花嫁衣裳』さながらであった。この仕立屋をエステリア達の下へ仕向けたのはシェイド自身であることから、婚約するつもりでこれを贈りつけてきたと考えてもおかしくはない。

無論、気落ちしている理由は、妖魔に奪われた身体と神子の資格、そして、これから周囲を騙し続けることへの後ろめたさの方が大きく、エステリアの表情に暗い影を落としている。
しかし、そうなるに至った原因は他でもない、シェイドにもあるはずだ。

この男が私の心を惑わしさえしなければ、私はまだ高潔な聖女でいられたかもしれない、妖魔を退けるだけの力を持っていたのかもしれない――力も信用も失った代わりに、己の不運を全て別の者に擦りつけ、憎むことができたなら、どんなに楽だろう?

復讐――シエルはそう考えを置き換えていくしか、方法はないというが、エステリアは不意に頭の中に浮かんだ身勝手な思いを、無意識のうちに打ち消そうとしていた。
シェイドを憎むなど、できるはずもない。生まれながらに幸薄い彼を必要以上に傷つけたくはなかった。だからといって、自分が彼の期待に添えるはずもない。
もっと強くならなくては――そう願っていても、心を簡単に変えることなんてできない。そんな自分がなんとも情けなく、口惜しく、責めれば責めるほどに、また泣きそうになる。

「子供の時と全く変わらないな」
シェイドが呟いた。
「お前……子供の頃からそうやって俯いていたろ?」
確認するように今一度問いかけるシェイドに、エステリアは思わず目を見張った。
「私、貴方と会った事あったかしら?」
どんなに記憶をめぐらせて見ても、思い当たるフシはない。そもそも自分は、外界の人間と接することなどほとんどなかったはずだ。
「いいや。面と向かって会ったわけじゃない。でも十年ぐらいに前、集落の近くの泉で、大人達に連れられた女の子の姿を遠目に見たことがある。笑顔も見せずにただ、俯いていた子供。それでも大人達はやたらその子を丁重に扱っていたから、多分、集落でも地位の高い者の娘なんだろうと思った。その条件に当てはまる集落の娘といえばお前しかいない。それに――」
「それに?」
「いや、なんでもない。推測でしかないが、聞いてみただけだ」
「泉なら何度も足を運んだことがあるわ。大人に連れられていた子供がいたとしたら、それは私よ。一族の長たる大巫女の素質があるかどうか、色々と試されていたの。でも……私、そんなに俯いていた?」
「……この世の終わりみたいな顔をして、口を結んだままだった。他人のことは言えないな、俺だって……子供の頃、ブランシュール夫妻のところに行くまでは、ほとんど笑ってなかったからな」
「やっぱり……そうなんだ」
「ああ。王宮ではクローディアが、俺の事を呪われた御子だと城中にふれまわっていたし、俺を蔑む奴らもいる傍ら、思い悩む王妃につけ込んで、取り入ろうとした、いかにも怪しげな霊能者や呪術師達もいた。連中は口を揃えて、これは先祖の祟りだの、王妃に悪霊が取り付いているだの、俺が悪魔に魂を売り渡した人間の生まれ変わりだのと、好き放題言って母を翻弄した。俺を失脚させることだけに奔走する叔母に従兄弟、実妹から受ける冒涜に耐え忍ぶヴァルハルトと母。まやかしばかりを語り聞かせる愚民ども。こんなものばかり見ていたら、笑えるものも笑えなくなってしまうさ」
まるでどこかで聞いたような話である。
よくよく考えてみれば、王妃に傅いてきた者達の手口は、セイランで女帝レンゲに取り入っていたラゴウと全く同じではないか。ラゴウに対するシェイドの異常な嫌悪感の裏には、必ず母親である王妃との思い出が見え隠れしていると、シエルが言っていたことを思い出した。
「似たもの同士なのね、私達って……」
実の親との折り合いの悪さといい、周囲から尊敬される地位と力を持っている反面、侮蔑の対象でもあったこと、そして笑顔を捨てていた子供時代。まるで、自分達は金貨の裏表のようだとエステリアは思った。
「ねぇ……貴方は……本当に私が必要なの?」
「どうした?いきなり」
「いいから答えてくれる?」
「……必要に決まってる」
シェイドの返事が先日と変わることはない。確かに、似たもの同士であるならば、互いの傷を舐め合うようにして、己の心に足りぬものを……その隙間を補うことができるかもしれない。
エステリアは肩をすくめると、急に真剣な顔をした。
「じゃあ、今夜貴方の部屋に行くから、朝まで一緒にいてくれる?」
自分でもよく言えた、と思うほど、大胆な発言だと自覚している。それ以上に目を丸くして驚いているのはシェイドの方だ。
「お前にしてはきつい冗談だな」
「貴方がどこまで本気なのか知りたいの。貴方が妃にしたいのは、神子としての私?貴方は全てが終ってからでもいいと、待ってくれるといったけれど、聖戦を終えて神子としての箔がついた私が必要なの?もしも私が普通の女性だったり……万が一、悪魔と取引をした魔女だったりしたら、貴方、私に求婚した?」
「俺が今夜にでもお前に手を出して、それでも必要だと言えば、お前の心は満足するのか?」
「だって、神子に選ばれたこと以外、私にはなんの価値もないのよ?私がただの女だったら、貴方はきっと見向きもしないはずよ……普通はそう考えるでしょう?」
「随分と決め付けてくれるもんだな。俺にとっての神子も、俺にとっての妃も、お前一人だけだ。それは出会ったときに、最初に思ったことだ。もしもお前が言うように、別の立場で出会っていたとしても……俺は……」
口にするにも馬鹿馬鹿しい話に思えてきたのか、シェイドは言葉を濁した。
エステリアは深く溜息をついた。
私は貴方に相応しくない女なのよ――、そう言ってしまえば、簡単に決着はつくのだが、そうなればシェイドはエステリアに自分が納得するだけの理由を訊いてくるだろう。シェイドに良いように言いくるめられて、自分の身に起こった出来事を洗いざらい話す羽目になる事ぐらい目に見えている。
なんとか穏便に求婚を断わるには、どうにかして本人に自然と諦めさせることが一番である。
神子だから求婚を受けることができない、という理由は既に通用しない。
相手は全てが終るまで待ってからの結婚でもかまわないと、求婚の際に言ったのだ。
だったら、相手の真意を徹底的に疑って、結果、シェイドがエステリアへの興味を失えば、しめたものだ。
全てが明るみになって、汚らわしい女だと心底嫌われるよりは、こうして距離を置いて、今までどおり、ただの神子候補と従者の関係に戻った方がましだ――そうなるように話を進めているにも関わらず、相手はいつにも増して凶悪な口説き文句で、こちらを落とそうとしてくる。
自分にとっての『神子』はエステリアただ一人だけだという。
要するにシェイドにとって、好いた女は、女神という存在にも等しいということなのだろうか?
たとえ、神子でなかったとしても、どこかで出会えたならば好きになっていたかもしれない――とまで言い切っているのだ。
どうしてそこまで自分に入れ込むことができるのだろう?
仕方ない――エステリアは渋々切り札を、いわばシェイドにとっての最大の禁句を口に出した。
「それに……貴方……本当は、とても大切な人がいたんでしょう?その人との思い出も全部忘れて、私を妃に迎えることができるの?後ろめたくはない?」
ミレーユのことを指摘されたことから、案の定、シェイドの表情が微かに強張った。
エステリアは内心、恐ろしいものがあったが、構わず続けた。
「そういう心の準備はできているの?」
シェイドはしばらく黙った後、天井を仰ぐと急に改まって語り始めた。
「俺の存在さえなければ、ヴァルハルトもソフィアも永遠の恋人といっていいほどに仲がいい。それでも俺は、国王夫妻よりも、子宝には恵まれなかったものの、ブランシュール夫妻の方が、もっと温かいものがあって……羨ましかった。父親も定かでない素性の俺が、王位につく訳にもいかない。それこそ王座の簒奪だ。ずっと一人で生きていく、そう決めた。そのために……もっと強くなりたかった。身も心も。魔剣なんかにも頼らなくて済む力が欲しかった。そう思っていたときに……」
シェイドは何かを言いかけて、口ごもると、まるで気を取り直すかのように軽く息をついて、話を続けた。
「王宮みたいな堅苦しいものじゃなくって、あたり前の、普通の暮らしが欲しいと思った。質素でもいいから、俺がいて、あいつが……ミレーユがいて、子供達がいて。俺は本当の両親に懐くことも、甘えることもよくわからなかったし、許されなかったから……。それでも、何一つ叶わなかった。浅はかで愚かな夢さ……」
過去の自分を嘲笑うかのような表情で、シェイドは
「ミレーユが死んだ夜――俺は……妖魔に負けたんだよ……」
ぽつりと洩らした。
「俺は……二度とあんな思いはしたくない。だから今度は絶対に護ると決めた。どんな手段を使ってでもだ」
ここまで真摯に言われては、もはやエステリアには返す言葉が見つからなかった。これがサクヤであったなら、上手い事シェイドを丸め込んでいたのかもしれないのだが……。
押し黙ったままのエステリアを見つめながら、シェイドが言った。
「求婚してから昨日の今日だぞ?そんなに性急に答えを出そうとしなくていい。よくよく考えて……そうだな……お前が、少しでも自分に自信がついたときにでも、返事をくれたら助かる」
その『昨日の今日』でエステリアの人生は、一気に暗転してしまったのだ。
シェイドの言葉に、エステリアはいつもの如く俯いた。
そんなエステリアの態度から、何かを察したのか、シェイドは冗談交じりの声で語りかけた。
「で、お前、今夜俺の部屋に来るのか?」
「え?……あの、それは……その」
先程の威勢はどこへやら、エステリアは急に赤面した。妖魔とあのような事になったとはいえ、恥じらいを忘れているわけではない。
「俺が本気かどうか確かめたいんだろう?」
「あの……、その話は、もう……」
「一緒に酒でも飲みながら、お前の愚痴に朝まで付き合ってやろうか?」
「はぁ?」
エステリアは頓狂な声をあげた。
「別に、俺はお前が酒乱だったとしても一向に構わないが?」
他人事のように言うシェイドに、
「意地悪ね……貴方って……どうして、いつも……」
そうやって固く決意したはずの、私の心を揺さぶるのだろう?エステリアははにかむように笑った。
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