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EternalCurse

Story-4.(しめ)やかなる饗宴-T
剣を抜き、払い落とすよりも前に、その矢は深々とシェイドの左肩に刺さっていた。
かろうじて使える右手で、懐に忍ばせている短剣(ダガー)を狭間窓に向って投げる。それが潜んだ刺客に命中するなど、最初から思っていない。あくまでもこれは威嚇である。
今の自分には、エステリアを庇うだけで精一杯だったのだ。
「誰かある!」
回廊に王妃の声が響き渡った。王妃もまた射かけられた瞬間を目にしていたのだ。張り上げた声に、この場の異変を感じた侍従達が集まってくる。
「くそ……こんなときに」
シェイドは片膝をつき、矢を引き抜いた。途端、肩から吹き出た血がゆっくりと衣服を湿らせていく。
「シェイド!」
エステリアがシェイドに寄り添う。
「無事か?」
徐々に赤く染まりつつある左肩を押さえながら、シェイドはエステリアの無事を確認する。「神子様! 王妃様! ご無事ですか!?」
王妃の侍従達に混じって、シエルが駆けつけた。
「おい、どうした!? お嬢ちゃん!」
シエルに続いてガルシアも現れる。だがその身体はずぶ濡れで悲惨なものであった。
「酔いは覚めたのか?」
ガルシアの姿を一瞥して、シェイドが皮肉たっぷりに言った。
「おお! シエルのおかげでな!」
ガルシアが恨めしそうにシエルを見た。
「だって! この緊急時にガルシア様ったら酔い潰れているんですもの。酔い覚ましに躊躇っているカイル様から水桶を取り上げてぶっ掛けて差し上げましたわ!」
「ああそうだとも! このカルディア王国の将軍である俺に、そんな狼藉を働けるのはこの世でおめぇぐらいだ!で? 本当に何があった?」
シエルに言えるだけ言い返した後、ガルシアは訊いた。
「暗殺未遂だ。側塔の窓から矢を射られた。一応、短剣を投げて応戦したが、衣服を掠っていればマシ方だな」「暗殺ってお前――狙われたのは王妃か?」
「いいや。エステリアの方だ」
そう言い切ったシェイドにシエルは首を傾げた。
「どうしてわかりますの?」
「つい先程まで、王妃とエステリアがここで向かい合っていた。だが、王妃がいるときには矢は放たれず、王妃がエステリアから離れた途端、刺客は撃って来た」
「つまり、最初から『的』はお嬢ちゃんに定められていたってわけか」
シェイドは頷くと、直属の侍従に囲まれ、遠ざかる王妃に視線を移した。
「どうした? シェイド、王妃が気になるのか?」
「いや……あの中にエステリアを狙った刺客がいそうな気がしてな」
シェイドが呟く。
「おいおい……侍従達の中に犯人がいるっていうのかよ!」
「刺客――あるいは、刺客を雇った人間が、な」
「魔族や魔性の類が犯人ってことは考えられないのか? 新たな神子様が現れて、一番困るのは奴らなんだろ?」
ガルシアの言葉を聞いて、シェイドは呆れるように溜息をついた。
「魔族だったら、王妃も神子も、この場にいた俺さえも見境なく襲っているはずだ。仮に分別のつく魔族だったとしても、わざわざ弓を使って殺そうとするか? そんなことをするぐらいなら、火の玉を吐くなり、直接喉元を食い千切るなりした方が確実に標的を仕留めることができると思うぞ?」
「お、おお。そういえばそうだな」
シェイドに言われ、ガルシアは渋々納得した様子だった。
彼にしてみれば、人間が――しかも王宮に仕える者が神子の暗殺に関わっているかもしれないということが、どうにも信じ難いのだろう。
「ごめんなさい。私の所為で」
ようやくエステリアが口を開いた。
「たいした傷じゃない。気にするな」
エステリアは首を振った。
「癒しの術なら使えます。左肩の傷を治すから、触れてもいい?」
そう言われたものの、はじめ、シェイドは躊躇っていた。神子を危険から守るのは、騎士として当然のことで、それによって負った小さな怪我の一つや二つで神子を煩わせてはならないと考えていたからだ。だが、エステリアは今にも泣きそうな顔でこちらを見つめている。
さらに頭の上ではシエルが『神子様の厚意を無碍にすることは許さない』と言いたげな冷たい視線を送り続けていた。
このままでは一方的に自分が悪者にされてしまう――シェイドは仕方なく、エステリアに甘えることにした。
エステリアは一度両手を組み、祈りの言葉を呟いた。祈りに応じるように、小さな星屑のような光がエステリアの掌に集まっていく。淡い輝きを纏ったその手をシェイドの負傷した肩に近づけ、血に濡れた傷口にあてがう。温かな光がその傷を癒しはじめた――丁度そのときだった。
「あっ!」
突然エステリアが声をあげ、弾かれるようにシェイドの左肩から手を離した。
「どうした?」
「ううん、なんでもない」
エステリアが目を逸らす。
「俺に触れた瞬間に、なにかが見えたんじゃないのか?」
「え?」
まるで、自分の心を読んだかのようなシェイドの言葉にエステリアは動揺した。
「その……」
「思わせぶりな態度のまま、話を誤魔化すのは感心しないな。俺は今更何を聞かされたところで、驚いたりはしない」
それは口篭るエステリアを切り捨てるような口調だった。エステリアはしばらく考え込むと、ゆっくりと口を開いた。
「一瞬だったから、はっきりとはわからなかったけど、貴方に触れたとき幻が見えたの。ずっと深くて、黒いもの……闇みたいなものが、はじけ飛ぶ――そんな幻」
エステリアはあまりにも漠然とした表現でしか説明できないことがもどかしかった。
こんな話では相手に納得してもらえるかどうかも怪しい。しかし、
「……そうか」
シェイドからの返事は意外にもあっさりとしたものだった。事前に本人が話したとおり、特に驚く様子は見られない。
「原因は……こいつか?」
シェイドが腰に視線を落とした。その帯には柄から刀身にかけて漆黒の剣が差してある。剣の鍔には片方に天使の、もう片方に悪魔の翼を持つ女神像が彫刻されており、中央には血のように赤い猫目石(キャッツアイ)が埋め込まれている。
「これはナイトメアと言って――、斬った者、触れた者の生命を吸い尽くす曰く因縁つきの魔剣だ。きっとこの剣が放つ瘴気が幻を見せたのかもしれない」
シェイドの言うとおり、芸術的な美しさを兼ね備えたその剣は、微弱ながら禍々しい気を放っていた。これにはエステリアも納得せざるを得なかった。
その一方で、魔剣の名を耳にした途端、ガルシアが思い出したように手を打った。
「お前さぁ、刺客が矢を放ったときに何で魔剣を使って仕留めに行かなかったんだよ!短剣投げるなんてケチな真似するから、犯人を取り逃がしちまったんじゃねぇか?」
今更、起こってしまった出来事を責められてもどうしようもない。勿論、ガルシアもそれを踏まえた上、冗談半分で言っていることはわかっていたが、
「矢で射られた怒りに任せて、魔剣(ナイトメア)でぶった斬りに行くのはいいが、実はその刺客は囮で、俺がそいつを追いかけている隙に、別のところに潜んでいたもう一人の刺客が神子を狙ってきたらどうする?」
シェイドはあくまでも自分の判断の正しさを主張した。
「ちょっと待て! 刺客は数人いるっていうのか?」
「それはわからない。だが刺客が一人だけとも言い切れない」
そう言いながらシェイドは立ち上がった。
「ちょっと待って! まだ完全に傷口はふさがってないわ」
「ここまで治れば充分だ。助かった」
シェイドはエステリアに簡単な礼を述べると話を続けた。
「今からブランシュール邸に移るぞ」
「はぁ!?」
あまりにも唐突すぎるその言葉にガルシアが頓狂な声をあげる。勿論、以下二人も目を丸くした。
「さっきも言ったが、刺客は一人だけとは限らない。仮に一人だけだったとしても、俺が魔剣(ナイトメア)を『出し渋った』おかげで取り逃がしたんだ。刺客はまだ王宮のどこかに潜んでいて、また神子の命を狙ってくるかもしれない。明日、城で盛大な出立式があるならともかく、どうせ密やかに国を出るんだ。今晩、ここに留まる必要はない。エステリアを匿うのなら、なまじ敵の多い王宮より臣下の屋敷の方が適していると思うが?」
「王宮以外の場所で匿うんだったら、俺の屋敷でもいいじゃねぇかよ」
何気に皮肉が入り混じったシェイドの説明に、大人気なさを感じながらも、ガルシアが反論する。
「お前の屋敷の連中は汗臭いし暑苦しい」
それをシェイドが一刀両断した。
「私もシェイド様の意見に賛成ですわ。ブランシュール邸であれば、お仕えしていた分、私も勝手がいいですし」シエルが頷いた。
「そうと決まれば、『我が家』への帰宅は急いだ方がいいな」
密かに公爵邸に戻る手配を進めるため、歩き出したシェイドをエステリアが引きとめた。
「あの……貴方のお家の人に迷惑はかからないかしら」
仮にもエステリアは命を狙われている身である。目的を果たすため、刺客が自分以外の人間に、刃を向けないとも限らない。それを思うと、心苦しかった。
「心配するな。俺の屋敷の人間は公爵(ちち)を始め、ほとんど剣の心得があるものばかりだ。そう簡単にはやられたりしない。刺客が襲ってきたら、また守ってやるから安心しろ」
シェイドにそう言われ、エステリアの頬が微かに紅潮した。
「今度はこいつの身体を盾にしてな」
ガルシアの肩を叩きながら、さらに付け加えたシェイドにシエルが爆笑する。
「確かに、ガルシア様なら矢の五、六本刺さったところで、死にはしませんわね」
「お前ら! いい加減にしねぇか!」
ガルシアの声が夜空に響き渡る。その和やかな(?)やり取りに、エステリアもつい噴出した。



夜間だったにも関わらず、久しぶりに帰ってきた息子を出迎えたブランシュール公爵夫人の喜びはたいそうなものだった。
「まぁ! シェイド! 珍しいわね。貴方が屋敷に帰ってくるなんて。それにガルシア将軍も! 息子がいつもお世話になっています。あら? そこにいるのは、シエルじゃないの! 久しぶりね。王宮仕えはどう? もう慣れたかしら? 貴方がこの屋敷にいないとやっぱり寂しいわ。そうそう! ほら、貴方が得意だった洋梨のパイが上手く焼けないのよ! もう一度コツを教えてもらえるかしら?」
公爵夫人はめまぐるしく話題を変えながらも、すぐさま、客人を持て成す準備に取り掛かった。ガルシアを湯殿まで案内したかと思うと、エステリアとシェイドを強引に食堂(ダイニング・ルーム)に座らせ、夜食を用意する。シエルも夫人を手伝ってはいたが、公爵夫人の動きは初老を迎えた女性とは思えぬほど機敏であった。
「さぁ、遠慮なく食べて頂戴ね。そうだ! ガルシアさんがお風呂から上がってきたら、お酒も用意しなくちゃ! ああ! シエルにもお菓子の試作品を食べてもらわないと!」
「母上、そんなに急いで動くと、お体に触りますよ? 前から右肘が痛むと仰っていたじゃありませんか」
シェイドが夫人の身を案じる。
「だって嬉しいんですもの」
野菜をたっぷりと煮込んだミルクスープをテーブル運び終えた公爵夫人は、満足気に微笑むと、エステリアを見つめた。
「シェイドがこんなにも可愛らしいお嫁さんを連れて来たんだから」
「はい?」
エステリアは危うく口に運びかけたスープを噴出しそうになった。
「どうしてそこまで話が飛躍するんです? 母上……」
シェイドにおいては呆れ果てている。
「あら? 違うの? せっかく、貴方にぴったりの()だと思ってたのに――残念ねぇ。まぁ……貴方はそう簡単にお嫁さんは選べないものね、仕方ないわ……」
そう言いながら、夫人が寂しそうに肩を落としたときだった。ノックの音と共に、扉の奥からシエル現れる。だが、その表情はなにやら険しいものであった。
「奥様、お客様が見えられています、通されますか?」
「まぁ、こんな時間にまたお客様? 一体誰かしら……」
夫人は『ごゆっくりね』とだけ言い残すと、シエルを連れて新たな客人の元へと向かった。
「お母様、優しい人ね」
夫人が出て行った後、エステリアが呟く。息子を暖かく迎える、明るく優しい公爵夫人の姿が、氷のような自分の母親とは対照的で羨ましく思えたのである。
「――血は繋がっていないけどな」
テーブルの上の燭台を見つめながら、シェイドは静かに答えた。
「え?」
「カルディアの三大公爵家と言われているブランシュール家の当主、エドガー・ブランシュールとその夫人、ソニア・ブランシュールの間には子供がいない。正確には娘がいたんだが、その子は赤子の頃に病で亡くなったそうだ。それ以来、夫妻は子に恵まれなくてな。――七歳の頃に、俺が養子として迎えられた」
「じゃあ、貴方の本当のご両親は……?」
「祖国にいる。しばらく会ってはないが、たまに手紙がくるからな。元気のようだ」
「貴方、他に兄弟がいるの?」
「俺は一人っ子だ」
「じゃあ、どうして養子になんか出されたの?」
エステリアは腑に落ちなかった。貧困にあえぐ親が食い扶ち減らしとして子供を養子に出すことはよくある話だが、それはあくまでも下級層のやることである。貴族達は、愛妾に生ませた庶子が嫡子と家督争いを起こさぬよう、養子という手段を用いて厄介物を遠ざけることもあるが、ブランシュール家はカルディアの大貴族である。そのような曰く付きの子を貰い受けるはずがない。
シェイドには両親とも健在しており、なおかつその他の兄弟がいないという。だが、公爵家に迎えられたことからシェイドの祖国での身分も相応に高いものだと伺える。元々有力貴族であったならば、養子に出さずとも経済的に困ることはないはずだ。
時折、両親からの手紙が来るというのだから、屋敷を勘当されたというわけでもないらしい。だとしたら両親がシェイドを手放す理由がますますわからなくなった。
「お前がそんなに詮索好きな性格とは思わなかったな。……養子縁組しているとはいえ、俺と公爵家の両親がやっていることは――ただの親子ごっこに過ぎない」
シェイドの黒曜石の瞳は蝋燭の光を湛えて、濡れたように輝いていた。
「俺は、いつかは、祖国の両親の元に帰らなくてはならないんだ。その時が来るまではエドガー・ブランシュールの子として、彼から沢山のものを学び取らなくてはならない」
「じゃあ、修行のために、お家を出されたの?」
「出されたんじゃなくて、俺が出ると両親に言ったんだ。両親の元には――子供心にどこか居辛くてな」
エステリアは、深い理由は尋ねずに黙ってシェイドの話に耳を傾けていた。
「とはいえ、エドガー・ブランシュールといえば、英雄ヴァルハルトの剣の師であり、その腕は剣聖とも謳われるほどの達人だからな。習うには打って付けだった。本当の父親とエドガーは親交があったから、こちらの申し出も快く受けてくれた。躾にしろ、剣の稽古にしろ、エドガーは本当の父親以上に容赦がなかったな」
「公爵夫人は?」
「ソニアはいきなり七歳の息子を世話することになって、戸惑ってはいたが、あの面倒見のいい性格だから、その生活にもすぐに馴染んだ。俺の方はあの養母の名前が――俺の本当の母親と同じ名前だったから、不思議な縁を感じていた」
「本当のお母様の名も、ソニアというの?」
「祖国とカルディアの言葉とでは、少し呼び方が変わるが、同じ名だ。本当の母はあれほど底抜けに明るくはないけどな」
シェイドの口ぶりは、遠慮しつつも、本当の母親への思慕を募らせている――そんな感じに受け取れた。
「でも、不思議ね。公爵家って、王家の次に立派な家柄なんでしょう? 例え養子だとしても貴方はそこの御曹司でしょ? それなのにどうして貴方はガルシアさんの副官をやっているの?」
「爵位を持って王家に仕えているのが、なにも道楽放蕩三昧の貴族ばかりとは限らない。実際には数万もの軍を指揮する将軍や、騎士団長に任命されているのは、名門の肩書きがある連中ばかりだ。俺は元々、国王陛下の下で近衛兵団として仕えるはずだったが、あの馬鹿(ガルシア)がいつも無茶をやるから、その監視役として副官に命じられた。おかげさまで五度は死ぬ目に遭ったな」
シェイドはどこかうんざりとした面持ちで、エステリアの質問に答えている。どうやらその『死ぬ目』に遭った日の出来事を思い出しているのだろう。
「ねぇ、さっきから進んでないけど、どこか悪いの?」
エステリアがシェイドのテーブルに並んだ料理に、目をやった。そこにはスープや、ガーリック風味で焼かれたパン、そしてソニアが『なかなかコツが掴めない』とぼやいていた洋梨のパイと温かいミルクティーなど、夜食として胃に優しいものが湯気をたてていたが、シェイドはその料理に口をつける気配すらない。エステリアの胸に一抹の不安がよぎった。
「もしかして……さっきの矢に、毒が塗られていたんじゃ?」
思わずその胸の内を言葉にする。即効性がなくとも、徐々に身体を蝕む毒もあるという。だが、シェイドは頭を振った。
「矢には毒は塗られてなかった。強いて言うなら――恋煩いかもな」
「は?」
「冗談だ。――ついさっき、軍との別れの席で同僚からそう言われた」
カイルとの会話を思い出すついでに、例の侯女の話まで頭に浮かんだが、シェイドはあえて考えないことにした。
「俺はたまに食欲が失せる時期がある――それだけだ。気にするな」
それだけだ――と素っ気無く言われたものの、定期的にそういった症状が出るというのであれば、充分、病の可能性だってある。エステリアはそう言おうとしたが、シェイドは視線を逸らしている。これ以上、この話題について触れて欲しくない――そんな雰囲気だった。
しばしの沈黙の後、エステリアが小さく呟いた。
「あの……一つ聞いていい?」
「どうした?」
どこか気まずそうなエステリアの態度に、シェイドが怪訝そうに見つめる。
「貴方にとって――王妃は何なんですか?」
一体、この娘は何を聞くのだろうか? シェイドの顔にはそう書いてあった。
「俺にとっての王妃は、俺が仕えるべき国王の妻で、この国で最も高貴な女性だが――それがどうしたんだ?」
「本当に、それだけ……ですか?」
「それだけ……とは?」
「いえ、あの貴方が……その、王妃の……愛人かと思って……」
エステリアのあまりにも直接的な質問に、シェイドはしばし硬直した後、静かに言った。
「お前は、俺に決闘を申し込まれたいのか? 今のは立派な侮辱だぞ」
「ご、ごめんなさい! でも……貴方と王妃の、その……雰囲気が、なんか……普通じゃなかったから……つい」
「なるほど、俺が王妃の情夫に見えたってわけだ」
耳まで赤くなるエステリアを前に、シェイドは続けた。
「お前がどんな想像をしようと勝手だが、あの方には子供の頃からよく目をかけてもらった。お前にとって、王妃はいい思い出のない母親かもしれないが、俺にとっては恩人だ」
念を押すように言い、そして付け足した。
「俺には……王妃に手放されたお前がどんな風に育って、どんな苦労をしてきたのか、その気持ちはわからないし、偉そうに言えた義理でもないが、王妃はお前を心底嫌っているわけではないと思う」
エステリアは俯いた。『貴方にどうしてそんなことがわかるの?』と、言いたげな表情だった。
「お前が謁見の前にシエルから着せられた法衣は王妃が見立てたものだ」
「あれが? 王妃様の?」
今でこそ寝具を纏っているが、エステリアはマナの集落より、カルディアへ送り届けられた後、すぐさま謁見の為の身支度として、予め用意された法衣へ袖を通す羽目になったことを思い出した。薄い紫がかった法衣の着心地は悪くなく、集落で着ていたものとさほど変わらないとその時に感じた事を覚えている。
「王宮の人間には、マナの人間が好む装束がわからなくてな。一応、洗礼の旅に出るんだから、流石にドレスを着せるわけにもいかない。神子として相応しくも実用性のある法衣でなくてはならない。試行錯誤の末に結局、仕立屋は王妃の意見を聞く羽目になった。王妃にマナのことを尋ねるのは禁忌で、それこそ死刑覚悟のお伺いだったそうだが、王妃は快くマナの装束に近い法衣の型と生地の質や色を選んで誂えさせた」
「本当に……? あの王妃……が?」
「……神子の白金の髪には、きっと淡い紫が映えるから――これは布の色を選ぶとき、仕立屋が聞いた王妃の言葉だそうだ」
シェイドの口から語られることはエステリアにとっては信じがたいとしか言いようがなかった。あの王妃が、国王との間に生まれた娘のみ愛しいと豪語した王妃が、わざわざ自分の法衣のために、仕立ての段階から関わったという。シェイドの言う通り、自分が思っているほど王妃に嫌われているわけでもないのだろうか?甘い期待が心に浮かんだが、自分が権力に媚びた母親に捨てられた娘という事実が、瞬時にそれを打ち消す。激しい動揺と高鳴る鼓動。心が落ち着きを取り戻せずにいた、そのとき……
「お待ち下さい。まだ――」
遠くでシエルが声を張り上げる。次にソニアが誰かに弁明しているような声が聞こえた。
食堂の外が慌しくなる。その異様な雰囲気の原因を確かめるため、
シェイドは立ち上がり扉へと近づいた。
「いけません! シェイド様も神子様もまだお寛ぎ中です!」
「シェイド様! シェイド様! ご無事ですの!?」
悲鳴にも似たシエルの叫びと、屋敷の使用人達の制止を振り切り、相手の都合も迷惑も顧みず、けたたましい足音と共に、無粋にも食堂に飛び込んできたのは――シェイドにとって最も厭わしき侯爵令嬢その人であった。
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