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EternalCurse

Story-38.失意
――そなたが、敵国の皇帝から手篭めにされたと知れば、英雄王と謳われるあの小僧とて、
平静を保ってはいられまい。
このままそなたが、儂の子を孕めば、これほど愉快なこともあるまい。

それは、この世で最も、忌まわしいと思ったあの日の記憶。
ソフィアの脳裏に、かのヴァロア皇帝、アイザックの勝ち誇った顔と、夫ヴァルハルトを嘲笑う声が浮かんでは、消える。

浅い眠りから覚めたソフィアがそっと目を開けた。
部屋はまだ深い闇に閉ざされており、ソフィアは隣にいる夫の眠りの妨げにならぬよう、小さく息をついた。

王太子の帰還に伴い、クローディアらによって、蒸し返された過去の醜聞。
それは日々、ソフィアの心に暗い影を落とし、ささやかな安息を奪おうとしている。
ソフィアはヴァルハルトの寝顔をじっと見つめた。

王妃が敵国にさらわれたと知るや、ヴァルハルトは、単身、帝国に赴き、ソフィアの救出へと向かった。
皇帝を廃し、王妃を取り戻したのも束の間、同時に彼は、最もおぞましい事実を知る事となる。
傷ついたソフィアを祖国へと連れ帰った夜、ヴァルハルトはソフィアの身体を執拗に愛した。
それが妻を奪った皇帝へ向けた激しい嫉妬によるものか、ただの慰め合いだったのかはわからない。しかしソフィアにとってそれはヴァルハルトからの、無言の責め立てにも等しかった。
望まぬとも陵辱されたことが、夫の怒りを買っている。ならばいっそ、夫の気の済むまで求めに応じることにしよう。
なにより、ヴァロア皇帝によって触れられたもの全てを、ソフィアは一刻も早く夫に拭い去って欲しかった。
妻である以上、いやこのメルザヴィアの正妃である以上は、必ず世継ぎを生まなくてはならない。
いずれはこの身に宿るであろう、その子の父親が、どうかあの男ではありませんように――それだけがソフィアの悲痛な願いであった。

まもなくしてソフィアは懐妊したが、それでも胸の内の不安だけは、どうしても取り除くことができなかった。奇しくも彼女が子を宿したのは、ヴァルハルトとの婚礼を終え、契りを交わした日、そして敵国の皇帝によって辱めを受けた日とも考えることができたからだ。
腹の子供は必ず、ヴァルハルトとの間に授かったものだ――そう自身に言い聞かせてきたが、それでもソフィアの願いは通じることがなかった。
生まれてきたのは、ヴァロア皇帝と同じ、青みがかった黒髪の男児だった。
シェイドを産んでから以降、夫妻が子宝に恵まれることはなく、クローディアらはそれに漬け込み、こぞって『夫婦の相性の悪さ』つまりは、子が出来ぬ原因は夫、ヴァルハルトの方にあると言い出した。そうでなければ、今頃、夫婦は第二子、第三子と授かっているはずだ、と。

自分のせいで、仮にも英雄王と謳われた夫がひどい冒涜を受けている――ソフィアはなによりそれが口惜しかった。
「どうした?眠れないのか?」
妻の視線を感じたのか、薄く瞼を開いたヴァルハルトが、ソフィアに呟く。

「いいえ。誰かの悲鳴が聞こえたような気がしたの。それでつい、目が覚めてしまって……色々思い出していました」
「悲鳴?」
「ええ。女の子の悲鳴よ。気のせいかもしれないけど……どうしてか心がひどく痛むの」
ヴァルハルトは、不安を訴えるソフィアの身体を自分の方へと引き寄せた。
「お前が思い悩むことはない。ここのところ、あまり眠れてないだろう?余計なことを考えずにもう休め――」
「……ごめんなさい。ヴァルハルト」
蚊の鳴く様な声で、ソフィアは詫びると、ヴァルハルトの厚い胸板に頭を沈めた。



「よもや……よもや殿下と盃を酌み交わす日がこようとは!このボリス、もういつ死んでも構いませぬ」
最愛なる王太子によって、盃にたっぷりと酒を注がれたボリスは、赤ら顔をくしゃくしゃにして、咽び泣いている。しかし、その悦びも束の間、
「なら死ぬ前に、この城に眠る至宝の在り処をさっさと吐いてもらおうか」
王太子の心無い言葉に、至福から一転、ボリスは噴出しそうになる。

「で、で……殿下?!まさか……まさか、それをこの爺から聞き出したいがために、かような酒宴に誘ったのでございますか!!」
「当たり前だ。そうでなければ、こんな真夜中にわざわざ呼び出すか。寝酒なんぞ頭痛の種だ。ろくなことがない」
テーブルに酒瓶を置き、ふんぞり返ったシェイドは、強い口調で問いかけた。
「いい加減に観念して教えたらどうだ?至宝は一体どこにある」
「いいや!言いませぬ!!」
大きく頭を振って、口を真一文字に、瞑る老臣の姿を見るなり、シェイドはすかさず席を立つ。
「わかった。お前がそう言うなら、俺は明日にでもこの城を出て行く。もう二度とこの国には帰ってきてやらないからな」
「ちょ、ちょ、ちょっとお待ち下さい!殿下!正直申し上げますと、何を隠そう、このボリス、至宝の在り処など毛頭知りませんのじゃ!」
ボリスが必死に弁明するも、嘘をつけ――シェイドは疑わしそうに目を細めた。
「で……殿下ぁ、信じてくだされ……」
「ひでぇ『孫』だなぁ、おい。あんまり苛めるなよ、爺ちゃんが可哀想だぞ?」
シェイドを諭しながら、ガルシアはボリスの肩を叩いた。
「まったく……」
目的の情報が得られぬまま、仕方なく席に着こうとしたシェイドの動きが止まる。その視線は、腰に差している魔剣へと注がれていた。
「どうした?シェイド?」
「いや……魔剣の様子が、少しおかしいような気がしてな……」
気のせいか――シェイドは言いながら盃を手に取った。
「その魔剣、あまり使わぬ方が、身のためですぞ?殿下」
「どうしてだ?爺ちゃん?」
「魔剣ナイトメアの妖力はとてつもなく強い。もとよりその剣は、永久なる闇の支配者の眷属。その剣が放つ闇と瘴気は、必ずや持ち主の身体を蝕むことでしょう」
「やっぱり、その魔剣はあの妖魔のものなのか?」
ガルシアが隣のシェイドに訊く。
「妖魔の所有物というよりは、分身……もしくは片腕、と言ったところか」
「まさか、あいつが頻繁に俺達の前に姿を現すのは、自分の魔剣を取り返そうとしているからじゃねぇだろうな?」
「頻繁に?と、申しますと?」
「いや、な。まともに戦いこそしてはいねぇが、カルディア、セイランとここのところ立て続けに、奴に出くわしたからな。まるでその魔剣に呼び寄せられているみたいだと思ってよ。そういやお前は会ってねぇよな、あの妖魔に」
「会ったところで、勝ち目はないがな」
シェイドが軽く息をつく。ボリスはガルシアの話を聞くなり、眉間に深い皺を寄せる。
「実のところ、彼奴目は、二十年前に一度、このメルザヴィアの地に現れたことがあるのです。おそらくは美しく清らかな乙女を手に入れるため、この空に浮かぶあの黒き星から舞い降りてきたのでしょうな。その時に狙われていた娘の中に、ソフィア様もおられた。
しかしここは、英雄王ヴァルハルト陛下が統治される国。それに恐れを成したのか、彼奴はソフィア様や、その他の娘を手にかけることなく、すぐさまこの国から姿を消したのです!あの妖魔が殿下を避けているのだとすれば、もしや、彼奴は陛下や殿下のように、英雄の血を持つ人間を最も苦手としておるのかもしれませんぞ?!」
これ見よがしにボリスは身を乗り出した。
意気揚々としたその老臣の姿に、シェイドとガルシアが互いを見合わせ、苦笑した。
「しっかしまぁ、あの妖魔め。お嬢ちゃんやミレーユの他にも、また別の女に手を出そうとしていたのかよ」
「ああいった魔族の類は、若く美しい女を従属させ、糧にする。とりわけ聖女は大好物だ。特殊な霊力の持ち主であれば、自分の力として取り込むことも可能だからな」
「さすがにあの公女の前には姿を現してないよな?……」
念のため、ガルシアが問いかけた。
「いくら『清らか』とはいえ、あれを相手にすれば、妖魔の方が死ぬわい」
苦々しげに、ボリスが返す。
「しかし、もしも爺ちゃんの言うとおり、妖魔がお前のことが大の苦手だっていうなら、まだ俺達にも勝ち目があるってことだな。ミレーユの仇も、あの時の約束も果せるってわけだ」
「はて?ミレーユとは?」
「ああ。そいつは、シェイドの……」
「ミレーユというのは、カルディアで妖魔の犠牲になった女性のことだ」
ボリスに無用な心配をかけたくなかったのだろう。
口を開きかけたガルシアよりも先に、シェイドが話に割って入る。どうも納得がいかないような面持ちのガルシアを見上げながら、シェイドは続けた。
「お前が心配しなくても、妖魔は俺が必ず消すさ。ただ、その方法が未だにわからない。あいつにはこの魔剣は通用しないからな。そこのところは、神子になったエステリアの力に頼るしかないかもな」
「それを聞いて安心したぜ。俺はてっきりお前が妖魔に怖気づいているとばかり思っていたからよ。どうせやるんだったら、一太刀分ぐらいは俺のために残しておいてくれよ?」
「ああ。出来る事なら、お前にトドメを譲ってやるよ」
これまでの苦々しい過去、もしくはかつて愛した人の面影でも、心に思い浮かべているのだろうか?――シェイドがそう言いながら醸し出す空気が、この時のガルシアには、いつになく重苦しいものに思えた。




エステリアの意識は、遠く離れた懐かしい場所――故郷の森を漂っていた。
その清々しい空気と、新緑の美しさ、優しい木漏れ日を目の当たりにして、
ああ、帰ってきたんだ――エステリアは安堵した。
もうじき集落が見えるはずだ――そう思えば、自然と足取りも速くなる。まるでこれまでの心苦しさから、開放されたような、そんな感覚に陥った矢先、木陰に傷ついた一角獣(ユニコーン)の姿を見つけた。
集落へと続く森は、テオドールに一度焼き払われる前から、精霊や聖獣の集まる聖地として知られている。森を歩く道中に、このような一角獣に遭遇したところで、なんら不思議ではなかった。
一角獣が持つ角は、ありとあらゆる毒を浄化し、無効にする力が備わっている。
それゆえ貴族達から狙われることも多く、おそらくこの一角獣も、そんな貪欲な人間達の犠牲になったのだろう。

今、治してあげるから――夢の中の彼女は、ゆっくりと一角獣に近づいた。
しかし、一角獣は彼女の思いとは裏腹に、鼻息荒く、頭を下げると、その大きな角で威嚇しようとしている。心無い人間達によって、追い回され、傷つけられたことが、よほどこの聖獣の気を高ぶらせているのだろう。
「怖がらなくていいわ。もう、大丈夫だから」
それでも彼女は、物怖じすることなく、一角獣の傷口に手を触れた。
しかし――癒しの術を施したにも関わらず、一角獣は突如として悶え苦しみ始めた。
静寂の森に、一角獣の悲鳴がこだまする。
音を立てて、額の角が真二つに割れ、美しい白い毛並みは、彼女の手が触れている場所から徐々に黒く染まっていく。あまりにも突然のことに、驚き、立ち尽くしていたエステリアが、次の瞬間に目にしたのは、もはや純潔の象徴たる一角獣ではなく、それと対極をなす不純を司るニ角獣(バイコーン)の姿だった。


「いやっ……」
あまりにも不吉なことの顛末に、エステリアは飛び起きた。
辺りを見回すと、そこはいつもと変わらぬ寝室の風景で、エステリアの身体は、寝間着姿で寝台の中にあった。
「夢……?」
エステリアは額にびっしりと浮かんだ汗をそっと拭い、呟いた。
それならば、あの妖魔からの陵辱さえ、夢だったのだろうか?
だとすれば、これは淫魔の悪戯か、随分と艶かしい夢を見たものだ。
しかし、そう納得するには何故かしっくりとこないものがある。そもそも自分はいつ、この部屋に帰ってきて、寝間着に着替え、床に入ったのだろう?
あまりにも曖昧な記憶に、エステリアは寝台から降りると、ゆっくりと鏡台の前に歩み寄った。
身体は思った以上に気だるく重い。膝に力が入らない。
何より、その身体の芯には、未だ熱と甘い疼きが残っているような気がした。エステリアは少しだけ寝間着を肌蹴て、恐る恐る胸の辺りを覗き込んだ。目を凝らしてみないとわからないが、そのいたる所に、微かに色付いた何かの痕が残っている。
「っ……」
下腹部に覚えた違和感と、逃れようのない不安に、エステリアは自分の身体を確かめた。
そんなエステリアを嘲笑うように、妖魔が胎内に放った残滓が、とろりと零れ落ち、太腿をゆっくりと伝った。
あれは、淫魔の見せた夢などではない。その事実にエステリアは愕然とした。
少なくとも妖魔との交合だけは、現実だったのだ。
身体を奪われ、神子としての資格を失ってしまった。そして自らも進んでそれを受け入れた。いや、欲したと言って間違いない。そしてその後の記憶が、一切抜け落ちてしまっている。
自らが失ってしまったものの重大さに、鼓動は跳ね上がり、急な眩暈と吐き気すら覚えた。気がつけば、エステリアは部屋を飛び出していた。
勿論、向かう先は、彼女が最も信頼を置く、侍女の寝室だ。
シエルはもう眠っているかもしれない。今、起こしてしまうのは申し訳ないが、それでも相談できるとしたら、あの侍女しかいない。救いを求めるように、シエルの部屋の前で立ち止まると、迷いつつも扉を叩こうとした、丁度その時
「この国の夜はやたら冷えるな。酒でも飲まねば満足に眠ることすらできん」
気がつけば、背後には盃を手にしたサクヤが立っていた。
「サクヤ……さん?」
いつからそこにいたのだろう?気配すら感じなかった。いや、切羽詰まったエステリアであるからこそ、シエル以外の存在には、目もくれなかったと言った方が正しいのかもしれない。
「あの……私……」
この賢者に、事実を打ち明けるべきなのだろうか――エステリアは戸惑っていると、今度は目の前の寝室の扉が、ゆっくりと内側から開き、
「エステリア様に、賢者様……一体、どうされたのですか?お二人して」
おそらくは、エステリアの足音や気配、二人の話し声に気付いて起きたのだろう、瞼を擦りながら、シエルがそっと顔を出した。
「えっと、その……私……」
シエルの方に向き直ったものの、サクヤの手前、エステリアは自分の身に起きた事が、全く言葉にできなかった。サクヤはそんなエステリアの爪先から顔までをしばらく眺めると、
「どうやら、お前には私の洗礼など、必要ないようだ」
感情の篭ってない声で、冷たく言い放った。
その一言に、エステリアは目を見開いた。心臓に鈍い衝撃が走る。呼吸が再び荒くなる。
サクヤはもう見抜いている――エステリアが聖女などではなく、ただの女、いや魔物と交わった汚らわしい生き物に過ぎないという事を。
エステリアは思わず、自らを抱きすくめるようにして、身体を振るわせた。
サクヤはただ、自嘲的な笑みを浮かべると、踵を返して、自分の寝室に戻って行った。
「一体、どういうことですの?エステリア様?」
未だに状況が把握できずに、シエルは、エステリアの顔を覗き込む。
エステリアはそんなシエルの両肩に手を置いたかと思うと、崩れるようにしてその場に座り込んだ。「どうしよう……私、私はもう、神子にはなれない……」
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