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Eternal Curse

Story-15.女帝
夢を見ていた。
それはまだ物心つかぬ幼き日。
慌しい一日に疲れ果てたレンゲは、一人廊下を歩き続けていた。
そこは、まだ三歳を迎えたばかりの幼子にとって、永遠とも思えるほどの果て無き道だった。
それでも何故か歩かずにはいられなかった。

数ヶ月前の王城は、レンゲの生誕を祝う宴もあってか、活気と喜びに満ちていた。
だが、今はその逆だ。城内の雰囲気も、城に集い始めた人々の表情も、暗く悲しいものばかり。
その誰もが一度は口にしていた『みまかる』という言葉が、『死』を意味するのだと、レンゲは初めて知った。
『死ぬ』ということは、それまで『生きていた』人間が、ある時を境に突然に動かなくなってしまうこと。動かなくなる原因は色々あって、それが病であったり、事故であったり、魔物に襲われたり、あるいは寿命であったりするらしい。
一度死んでしまった人間は、もはや話すことも笑うことも、泣くことも、一緒にご飯を食べることすらできなくなってしまうという。
そして『死んだ者』の身体はやがては朽ち、土へと還る。魂は肉体を離れ、『黄泉』という国で永久に生き続ける――いや、眠りにつくと誰かが言っているのを聞いた。

その『死んだ者』こそが、昨日までセイランを治めていた女帝――つまりは自分の母であることが、レンゲはなにより悲しかった。

白い花に囲まれ、棺に横たわり、眠る母の顔は穏やかだった。
しかし、触れてみると母の身体からは一切の温もりが消えていた。
母の取り巻きでもあった者達の話によると、自分は数日後には『女帝』というものになるらしい。
『女帝』とは、母の後を継ぐことであったが、そんなことはどうでもよかった。
もう母は一緒に眠ってくれることも、散歩をしてくれることも、抱っこをしてくれることもない。
こうして思い浮かべれば限りなく、そんなことばかりが頭の中をぐるぐる回って、レンゲはひどく混乱したが、失ったものがどれほど大きく、かけがえのなかったものであるかは理解できた。

家臣達の目を盗み、部屋を抜け出し、覚束ない足取りでここまで辿り着いた。
ずっと歩き続けていれば、母が旅立ったという『黄泉』とかいう国の扉が見えるかもしれない、そこにいけば、また母に会えるかもしれない、そう思ったからだ。

もっと早く歩こうとして、なにかにぶつかる。
その拍子に危うく尻餅をつきかけたが、何者かの手がレンゲの腕を掴み、その身体を引き戻した。

「こんな夜に一人で歩くと危ないですよ」
『何者か』の声がずっと、ずっと上の方から聞こえた。
助け起こされたレンゲが見上げてみると、白い装束を纏った若者がこちらを見下ろしていた。
「私は何もしませんから、どうか怖がらないでくださいね」
そう言いながら若者はやんわりと笑う。

妙なことを言う若者だとレンゲは思った。
その装束の色からして彼が医師か薬師であることには違いないのだ。恐れることなどなにもない。

レンゲはそのまま若者の横を通り過ぎようとした――が、
「ここから先は、お通しするわけにはいきません。どうか寝所にお戻りください」
若者が前に立ちはだかる。
「なぜじゃ?」
母恋しさのあまりレンゲは不機嫌そうに若者に訊く。
「人が踏み入れてはならぬ場所へと通じていますゆえに」
若者はレンゲの前に跪くと、
「貴方を死なせるわけにはいきません」
悲しそうに頭を振った。
レンゲはそんな若者の淡く美しい色の瞳に思わず見とれた。
なにより彼からはレンゲの大好きな『蜜柑』にも似た香りがする。

「もう寂しくはないから、泣きやんで」
若者はそう言うと、徐にレンゲを抱きしめた。
涙など流してはいない――だが、この温もりに包まれていると、悲しみも少し和らぎ、不思議と心が落ち着くのをレンゲは感じていた。

おぼろげにしか覚えていないのだが、あの時の若者は間違いなく、お抱えの薬師――シオンであったのだと、レンゲは今でも信じている。




大僧正が政を取り仕切るようになってからと言うものの、宮廷の中は以前とは違い、驚くほどに静まり返っていた。
行儀に作法と口うるさい侍女達も、教育係である賢者や四神達も、そしてあの薬師の姿さえ、今はもう、ない。そうなって、もうどれぐらい経つだろう?
新しく入った大僧正直属の侍女達といえば、誰もが紗がかかったような瞳で、表情がなく、口数も少ない。
真夜中に目を覚ました女帝レンゲは、その小さな身体には不釣合いなほど大きな寝台に身を沈め、虚空を見つめていた。 紫の瞳が少しだけ潤む。
不安と孤独に苛まされ、悲しい思い出や悪夢にうなされ、こうして度々、目を覚ましては、途方に暮れる。近頃では満足に眠ることさえできない。
そんなときは、大僧正が処方する薬を所望するに限る。
その薬は甘く、時にほろ苦い。だがひとたび口にすれば、仄かに酔い、心が痺れ、夢うつつのまま眠りにつくことができる。

今宵もその薬に頼ろうと、レンゲは上半身を起こし、侍女を呼びつけようとした。
丁度そのとき――
「女帝陛下、お薬の時間でございます」
まるで思いが通じたかのように、扉の外から侍女の声がかかる。
これで安心して眠ることができる――レンゲはそっと胸を撫で下ろした。

「あいわかった。入るがよい」
そう答えると同時に、扉が開き二人の侍女が入ってくる。 だが、大僧正が遣わしたあの蝋人形のような侍女達とは違い、二人の顔は血色良く、実に生気に満ち溢れていた。
そのうち一人は薬湯を載せた盆を持っていたが、二人とも同じ茶色の髪で背丈もさほど変わらない。どうやら年も近いようだ。彼女達は姉妹なのだろうか?
扉付近に『本物』の侍女達が、シエルの雷の術で失神し、転がっていることにも気付かずに、レンゲは思わず二人の姿に見入ってしまった。

「どうぞお召し上がりください」
まんまと女帝の部屋に侵入した二人の侍女――正確には侍女に扮したシエルとエステリアが女帝の寝台の前に跪く。
シエルが盆を差し出すや、レンゲはすぐさま椀を受け取り、一気に薬湯を飲み干した。
が……、
「うえっ、な、なんじゃ?この味は?」
大僧正が用意する薬とは、全く違うその味に、レンゲはお椀を取り落とし、咽ながら傍らに控えた侍女達を睨みつけた。
「そなたら!これはいつもの薬と違うではないか!一体どういう調合をしておるのじゃ!!」
小さな唇を尖らせ、涙目で詰る女帝にも動じることなく、エステリアは静かに顔を上げ
「陛下がいつも飲まれていたお薬でございます」
力強く言った。
「お口直しにこれをお召し上がり下さい」
続けてシエルが懐から包みを取り出し、女帝の前に広げた。
包みの中から出てきたのは、色とりどりの宝玉にも似た――飴玉だった。
「これ……は?」
酷い薬の味と、その直後に必ず差し出される甘い菓子に、レンゲの中で懐かしいものがこみ上げる。震える指先で、飴の一つを手に取り、口に運ぶと、忘れかけていたはずのその味が、思い出と共に、口いっぱいに広がっていく。
「今の、あの苦い薬は――シオンが処方した薬……だったのじゃな?」
つい、こぼれた涙を侍女の手前、擦って拭い去ると、レンゲは毅然と言った。
『薬を飲まれた後、陛下は大抵暴言を吐きますから、そんなときは飴で釣ってください。すぐに大人しくなります』 ――どうやらシオンの忠告どおりに行動して正解だったようだ。
シエルは満足気に頷くと、取り入るように女帝に語りかける。

「ああ女帝陛下、そんな悲しいお顔をなさらないで。その黒絹の御髪もお美しい紫水晶の瞳は奇跡の賜物。それを涙で曇らせるなど、持ってのほかでございます」

女帝を諭しつつも賛辞することを忘れていないところが、さすが侍女が本業で
『王侯貴族様をお相手にするときは、大袈裟なぐらいに容姿を褒めるのが一番手っ取り早いですわ』 が持論のシエルである。
果たしてそれが子供にどこまで通じるのかは微妙なところなのだが。
しかし、レンゲは自らへの賛辞には興味を示すことはなく、
「シオンの瞳は、もっと綺麗じゃ。妾など敵わぬ。妾はあの優しい紫色が大好きじゃ……それに、あやつからはとてもいい匂いがする。側におってくれると、すごく落ち着くのじゃ」
代わりに、あの薬師の姿を思い浮かべては、寂しげに微笑むと
「――会いたい」
ぽつり……と一言漏らした。

エステリアとシエルは、この言葉を待っていたといわんばかりに、互いの顔を見合わせた。
「そうですわ!女帝陛下!」
シエルがたった今思いついたかのような動作で、手を打つと、
「今からでも遅くはありません。シオン様の下へ参りましょう!」
伺いをたてる。
しかし、レンゲは、豪奢な掛け布団を握り締め、頭を振った。
「駄目じゃ、シオンも、皆もきっと怒っておる……」
小さく肩を落とした女帝の姿を見て、シエルが思わず舌打ちしそうになるのを、慌ててエステリアが嗜め、代わりに問いかける。
「何故でございますか?」
「妾が皆を城から追い出すように、命令したからじゃ」
レンゲはうな垂れると、話を続けた。

「妾は、皆が嫌いなわけではない。四神は厳しいが、優しいし……妾と遊んでくれる。サクヤは怖くて偉そうじゃが、頼もしいし、面白い。シオンも、毎晩毎晩、妾に苦い薬ばかり飲ませてくれるが、後でちゃんと口直しの菓子をくれるし……眠れぬときはいつも側にいてくれる……皆に会いたい。でも、妾が四神やサクヤやシオンと仲良くすると、鬼神と結託しておる黄泉の女王が、そこに眠る妾の母を――母の魂を苛めるのじゃ……」

女帝を取り巻く者共こそが、先帝の……母の安息を妨げている――それは、この小さな女帝の心を掌握するために、ラゴウが吹き込んだ戯言である。

「四神の方々も、賢者様も鬼神を……セイランを護る者として受け入れていらっしゃいます。陛下もどうか()の者に対し、お心を砕くことはできませぬか?」

「嫌じゃ。鬼神は妾の母上をあの世へ連れて行った。妾のお祖父様も、お祖母さまも殺したという、到底受け入れることなどできぬ」
頑なに首を振る女帝に、エステリアが優しく声をかける。
「先帝は、鬼神を信じ、必要とされていたと聞及びましたが?」
少なくとも鬼神本人から聞いた話を信じれば、彼と女帝の間には、確かに信頼関係があったはずである。
しかし……
「先帝……が?母上が?鬼神を必要……じゃと?」
その言葉を聞くなり、レンゲがキッとエステリアを睨みつける。頬が徐々に紅潮し、その身体が小さく震えた。

「戯言を申すな!母上も言っておる!鬼神を信じるなと!鬼神が憎く、恨めしいと!ラゴウが黄泉におわす母上の言葉を聞いて、妾に教えてくれるのじゃ!」
何かに取り付かれたかのように爛々とした目で、激昂するレンゲの様子に、シエルはこの世の終わりのような溜息をついた。
女帝は心の底からあの大僧正を信じきっている。
いや、ほぼ洗脳されていると言っても過言ではない。
傍が聞けば、大僧正が賜った『母上の言葉』とやらも、胡散臭いことこの上ないのだが、この幼き女帝にとっては、それも神の啓示に等しいのだろう。
「私、聞き分けのない貴族様方と、物分りのわるい子供は嫌いですわ」
苦々しげにシエルが呟く。勿論、女帝に聞こえぬような声で、だ。
「そなたら、そもそも何者じゃ?セイラン人ではなかろう?」
冷ややかな視線で女帝はエステリア達を見下ろしながら言った。
「さては妾を(たばか)りに来たか?愚か者め。即刻立ち去れ。そなたらのような娘であれば、見逃してやらなくもない。さもなければ、今すぐにでも兵を呼び、そなたらを捕らえ、ただちに刑に処する」
心を閉ざし、王者特有の口調で話すレンゲをエステリアは物怖じすることなく、真っ直ぐ見つめた。

「陛下の仰せの通り、私達はセイランの者ではございません。ですが、陛下を謀ろうと企てる者でもございません」
「ならば、何のためにこの国に来た?」
「私はエステリア。次代の神子となるため、賢者の洗礼を賜りたく、この地を訪れし者でございます」
「神子?そなたが次ぎの神子に選ばれし者と申すか?」
「はい。ですが、賢者様が王城に無き今、その洗礼も受けることすら叶わず 聞くところによれば、陛下は今、腹心の方々と離れ離れになっておられるのだとか。 ならば、及ばずながら、彼の者達のとの仲を取り持ち、誤解を解くため……そして陛下に真実をご覧いただきたく、侍女に扮して馳せ参じました」
「真実……じゃと?」
レンゲが怪訝そうに眉をしかめる。
「はい。陛下、ここは危険です。私達がお連れします。どうか共に王城を出てください。そして、その眼を持って真実を見極めて下さいませ」
あからさまに素性を明かし、頭を下げるエステリアにシエルは肩を落とした。
ここで女帝に駄々を捏ねられるよりは、いっそ気絶させて運んだ方が手っ取り早いかもしれない――そんな考えが頭をよぎる。

「そなたは、妾に一体、何を見極めよと申すのか?そなたの言う真実とは何じゃ?」

「それは……」
『大僧正ラゴウのことでございます』――、と口にするのは簡単なのだが、そう言ってしまえば、話の雲行きが怪しくなるのは目に見えている。 エステリアは口ごもった。
女帝に騒がれたくない一心で、正直に答えたつもりが、結局行き詰ってしまった。
後悔してももう遅い。第一、他になんと答えればよかったのだろう?
女帝が大僧正を信じている限り、どう取り繕って話をしようとも、自分達の分は悪いのだ。
せめてあの薬師が同伴してくれていたなら、また違った結果が待っていたのかもしれないが、迷っている暇などない。
こうしている間にも、他の場所ではガルシア達が囮となり、兵士をひきつけている。
シェイドは大僧正の元に向かっているのだ。
この際だから……短絡的で気が進まないのだが、実力行使で女帝を保護するしかない。
女帝には術の力で眠ってもらうことにしよう――エステリアは掌に霊力を集中した。

「おのれ……侵入者め……!」
どこからともなく、呻き声が聞こえる。それが扉の前で気絶していたはずの、女官の一人から発せられたものだと気付いたころには、目の前の景色が一転していた。

「エステリア様!」
エステリアを庇い、背中に強烈な一撃を受けたシエルが倒れ込む。
「シエル!しっかりして!」
意識を失ったシエルの身体を受け止め、揺り動かすエステリアを大僧正の侍女が一瞥した。

「まったく、人間風情が調子に乗りおって……」
言いながら、侍女の顔色はみるみる変色し、口が耳まで裂けていく。身体は鱗のようなものでびっしりと覆われ、手足の関節はあらぬ方へと向く。 そこにはもはや侍女の姿はなく、代わりに蜥蜴のような魔物が立っていた。

「何故じゃ?何故『妖』がこの城にいる?!お前達はこの城には入れぬはず!」
悲痛な声でレンゲが叫ぶ。

「愚かな女帝よ、我等を招き入れたのは、お前自身であろうが」

「妾が……?」
戸惑う女帝の姿を嘲笑うと、魔物は口から毒の霧を吐き出した。

「陛下!」
エステリアが咄嗟に女帝に覆い被さった。
振り向きざまに、神霊術を持って魔物を祓おうとしたが、寸前のところで手が止まり、目が泳いだ。
一瞬であったが、あの霧を吸い込んでしまったらしい。
口惜しそうな面持ちでエステリアが崩れ落ち、女帝もまた眠るように意識を失っていく。

「女帝といい、こやつらといい……あのお方に捧げる丁度いい土産ができたわ……」
倒れた三人の姿を見下ろし、魔物は低く笑った。
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