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EternalCurse |
Story-141.追憶 | |||||||
神子と英雄とが契約するその日、サクヤは一人、黒絹の夜着を纏ったまま、離れの社へと向かっていた。 陽はとっくに落ち、夜空には満点の星と月が昇っている。 本来ならば、英雄と出会ったその日にでも、聖婚を執り行うべきであったのだが、サクヤは自身の体調が整う日まで、フェネクスには待って貰っていた。 これからは、こうやってサクヤを煩わせていた月のものも、一切途絶えた身体となる。 つまり、女として子を成す事も出来なくなるのだ。それは自分が神子としての役目を終える日まで続く。 例え、役目を終えて力から解放され、元の身体に戻る事ができたとしても、その時、自分はもう子を成せる年齢ではないのかもしれない。 圧倒的な力を得るために、人として最も大事な能力を斬り捨てる。無論、それは英雄として選ばれた男の方にもいえる話である。 くだらない――サクヤはそう言い聞かせることで、脳裏から自らの迷いを無理矢理追い出した。 例え神子でなかったとしても、これほどの霊力を持ち合わせて生まれてきたのであれば、一生、このセイランを守護する神童として、浮世とは無縁の生活を送る羽目になっていたに違いない。 ただの女として、男に従属するだけの一生を終えてたまるか――それは母も、そしてサクヤ自身が望んでいたことだ。 今更何を後悔する事があるというのだろうか? だが、まだ多感な当時のサクヤには、普通の女性ではなくなる――という事を存分には割り切れずにいた。 石の階段を一歩、一歩、サクヤは踏みしめていく。そよぐ夜風は心地よい温度だった。 供の者など勿論つけてはいない。 これから執り行うことを従者が知れば、卒倒する事は眼に見えている。 道中でサクヤを襲う者も、勿論いない。襲ったところで、妖ならば即浄化され、鬼ならば粛清される。 人間ならば――もはや言うまでも無い。 古びた社に辿りついたサクヤは、夫となる男の気配を辿り、その場所へと辿りついた。 ゆっくりと戸を開くと、そこには無数の蝋燭が立てかけられ、淡く優しい光に満たされていた。 床には、古代文字の数々がぼんやりと浮かび上がっている。術式を施している証拠だ。 真ん中に設置された神像の前に、フェネクスはいた。 「ここにいた人間達はどうしている?」 サクヤが聞いた。 「全員、眠って貰っているよ。しばらく目を覚まさない。ただ……もしかしたら悪夢を見せてしまっているのかもしれないんだけど……」 邪眼を用いての術をかけたのだ、それは致し方ないことだろう。 サクヤは溜息をついた。 「まったく、新婚初夜に、女の方を部屋に呼びつける男なんぞ聞いたことがないぞ」 少なくとも、セイランにおいては、殿方の訪れを、健気に部屋で待つのが女性の嗜みだ。 女から男の元へ向かうなど、娼妓の作法として嫌われる。 「でも一応、場所としてはうってつけでしょう? こうやって術式を施せるし、近くには身を清める泉もある」 「うってつけなわけがあるか、罰当たり者め。社は神を祭るところだぞ」 「なら、いっそう好都合だよ。私達はこれから神様に祝福されてるって事でしょう? 何か悪いの?」 他人の気も知らず、あっけらかんとした口調で答えるフェネクスの様子に、セイラン人と『外人』との感覚の違いを実感しながら、サクヤは軽く肩を落とし、 「それに……ここだと……床は冷たいし、なにより痛いだろ……背中が」 床に視線を移した。 「ああ、それが嫌なの? 贅沢言わないでよ。貴方の部屋からここまで布団を持ち出すなんてまず無理な話でしょう?」 貴族の娘の部屋というのは、大抵、屋敷の最奥に宛がわれている。 ましてサクヤはセイラン皇家に縁ある者なのだから、そこに行き着くまでには厳重な警備が敷かれ、男子禁制の元で、部屋周辺に女官が多数巡回しているはずである。丁寧に説明を受けた事で、ますますバツの悪る一方のサクヤに、 「貴方……何気に怖がっていたりする?」 とフェネクスが訊いた。サクヤは視線を逸らす。その沈黙が答えだった。 「複雑でないと言ったら、嘘になるな。身分の高い者ほど、相手を選ぶ権利などない。顔も知らぬ相手と政略結婚させられる。街娘のように、恋焦がれた相手と結ばれる事などありえん」 だから自分もその道を辿るのは仕方がない――半ば諦めているかのようにサクヤは呟いた。 「内心、その街娘の生き方に憧れていたりするのに?」 「人の心を読むな」 「読んでないよ。なんとなくそう思っただけ。やっぱり、王侯貴族の結婚ってどこも同じようなものだね。心なんて通う時間すらない。まぁ、結婚してから築く絆もあるかもしれないけどさ……」 「正直、男なんぞ要らん。私の人生にとって、無駄な産物だ」 「酷いなぁ……今から私の妻になるって時に……」 フェネクスがくすりと笑う。 思えば、このようなフェネクスの表情をサクヤはまだ目にした事がなかった。 「くだらん話はここまでだ。さっさとしろ……」 「はいはい……じゃあ、ちょっと待ってくれる?」 フェネクスは数歩下がると、サクヤに背を向けた。 少しだけ自らの身体を抱え込むように、前屈みになると、次の瞬間、背中から天の御使いとも、悪魔ともいえない黒い翼が飛び出した。桜の花が散るように、その場に舞踊る黒い羽根に、思わず、サクヤは目を見開いた。振り返ったフェネクスの髪は白銀で、両眼は金色だ。額の邪眼だけが、変わらず紅い色を湛えている。 だが、身体に漂っている妖気が圧倒的にこれまでとは違っている。 「まったく、邪眼といい、その身体といい……生まれつき魔に魅入られたような奴だな、お前は……」 「その言い方は傷つくよ。これは歴代の英雄達が皆通った道でしょう?」 妖魔となったフェネクスが、サクヤに近づく。本能的に危険を感じたのだろうか? 神子となるべき立場でありながら、フェネクスが宿している力の大きさに、サクヤは逃げるように、後退りする。 フェネクスの尖った爪が、サクヤの夜着を取り払った。 するりと滑らかな音を立てて、夜着がサクヤの肌から落ちていく。サクヤは羞恥心から、すぐさま手で胸を押さえた。 「へぇ……貴方も照れる事があるんだ……」 関心するようにフェネクスがサクヤの肩に触れ、撫で下ろす。 「大丈夫だよ。心配しないで。悪いようにはしないし、なるべく早く終わらせるから」 「貴様、人を物のように……」 その物言いにサクヤは不快感を露わにした。 「なるべく早くもなにも、お前、元はイシスの神殿にいた神官なんだろ? 女慣れしてるのはおかしくないか?」 「前にも言ったけど、否が応でも、他人の邪な感情って勝手に流れてくるんだよ。だから変な知識だけ豊富になる。あと、どうせ妖魔なんだから、こういう事に長けてて当然なんじゃない?」 緊張を解くための冗談めかした話だが、そうは聞こえなかったのか、サクヤは神妙な顔をして俯いてしまっている。不服そうに尖った唇が戦慄いているようにも見えた。 「まぁ……私の事がさほど好きでなくても、貴方だって、これが義務と思えば耐えれるでしょう? 」 サクヤの顎をフェネクスの指が軽く持ち上げる。と同時にフェネクスと視線が合った。 それは見た者全てを惑わせる金色の瞳だ。怯んだサクヤのか細い腰をフェネクスが強く引き寄せる。 サクヤの膝から力が抜け、がくりと折れる。黒い羽根が辺りに散った。 軽く汗ばんで、上気した肌がまるでは白桃のようだった。薄っすらと開かれた唇は薔薇色になっている。 長い睫毛が落とした影のせいか、虚空を見つめたままの瑠璃色の瞳が微かに潤んでいるようにも見えた。 サクヤは散らばった黒い羽根を軽く握り締めていた。その羽根も、時間が経てば掌から砂のように零れ落ち、空気の中に溶け込んで行く。 床にはもう何の文字も浮かんではいない。儀式が終わると同時に、身体の中に吸収されてしまった。 「ねぇ、サクヤ、寒くない?」 フェネクスがゆっくりと上体を起す。長い銀髪が、サクヤの身体に雨のように降りかかる。 「お前……私の心を探っているのか?」 「ううん。探ってないよ。さっきもだけど、貴方の心の中……今真っ白だから」 それが余計にでも自分が今もなお、忘我の境地にいると指摘されているようで、サクヤはフェネクスから顔を背けた。 「珍しく貴方の顔が可愛く見えるよ」 「止めろ、お前に褒められると気持ち悪い……」 「なら言い方を変えるよ。貴方は笑っているより、ちょっとふて腐れているぐらいが丁度いいと思うんだ」 「その言葉……他所の女に投げかけようものなら、確実に殴られるぞ」 「逆に言えば、貴方に言う分は問題ないって事だよね?」 これまで言い負かされた事などないのに、フェネクスが相手となると、サクヤはどうも調子を出せずにいた。 「それはそうと、身体の方は大丈夫?」 「……少し、気持ち悪い。まだ私の中で、力が拮抗して馴染んでないんだろう……」 「いや、そうじゃなくて……」 自分が無体を強いて、サクヤを傷つけるような真似をしてなかったか、という事が気になっていたのだろう。 言葉の意味をようやく察したサクヤが 「お前だってさっき言っていただろう? 耐えろと。これは世間様に言わせれば、ただの政略結婚に過ぎん。今更、嫌も糞もあるか」 ぶっきらぼうに答えた。 「あのさ……その言葉遣いは止めた方がいいと思うよ? 貴方、一応貴族なんでしょう? それも女帝候補にまで挙がってた……」 「宮中だけならまだしも、これからは外の世界に出るんだ、上品だけでは通用せん事も多々ある」 「さっきまではガチガチに緊張してたくせに」 「緊張するに決まってるだろ。このセイランでは、妖や鬼に魅入られた者の末路は悲惨だ。堕落させられた挙句に魂まで食われ心無き人形と化す。英雄といってもお前とて魔性の類だろ? それを前にして警戒しないわけがない」 「つまり……貴方はこの儀式には懐疑的で、私と契約するにあたっては、自分本来の力が失われてしまう事に怯えてたって事?」 図星だった。 いくら神子と英雄が夫婦という関係を知っていたとはいえ、相手は魔である事には変わりないのだ。 そのようなものと契約を取り交わすと聞いて、心が穏やかでいられるほど、サクヤも大人ではない。 「霊力や神通力を失った私にはなんの価値もない。残るのは、類稀ぬ美しさと教養、身分の高さだけだしな」 「霊力が無くなったところで、貴方は取り得だらけじゃないか……」 「馬鹿を言うな。霊力が無くなれば、これまで調伏、使役してきた神獣や土地神まで全部手放す事になるんだぞ。冗談じゃない」 「そんな考え方じゃ、仮に神子じゃなかったとしても、貴方は一生結婚できないよ? 夫を得たら、聖女や巫女と呼ばれる人達は、家庭に入る代わりに、力を失うんだしさ」 「だから、本来なら私の人生において男なんぞいらんと、先程から言っているんだが?」 「でも、今のところ力を失った気配はないんでしょう?」 「失っていたなら、今頃お前を刺殺しているところだ」 「それは勘弁してよ。でも、おかしいね。貴方の中はいくつもの矛盾が常に渦巻いてる。自分の力を失いたくないから、一生、男なんて要らないって口にするわりには、これからしばらくは子供の出来ない身体になる事を恐れていたりする。全部、諦めて割り切っているようで、憧れを捨てれない部分があったり……」 次々とサクヤの心内をフェネクスが言い当てた。 この社に辿り着く前、あのように遠く離れた場所で考えていた事が、既にこの男には読まれている――サクヤの瞳が微かに揺れる。 「ごめん、不愉快だった? でも故意に心の中を覗いたわけじゃないよ。貴方の強烈な葛藤みたいなものだけが、一方的に頭に入ってきてたから、すごく印象に残っただけ」 それは難儀な事だな――特に怒る様子もなく、サクヤは素っ気無く返した。 そんなサクヤの反応を楽しむように、フェネクスは笑うと、 「この国で神童として崇められていたそうだから、もっと感情のない人形みたいな人だと思ってたんだけど……貴方は人間臭くて面白いよ」 宥めるように言った。 「――私は常に他者を従わせて生きて来た。だから、他人にこうして調伏されるのが何よりも我慢ならないし……慣れてない」 サクヤはそう答えると、フェネクスから視線を逸らした。 「じゃあ、尚更だから、しばらくこうしていていい?」 再びフェネクスが、サクヤの身体になだれかかる。 「なんだ!? いきなり……!?」 驚いたサクヤの両手が一瞬、宙をかく。 「やっぱり貴方『も』……他人には甘え慣れてないって事だけは、よくわかったよ」 ふと、耳元でフェネクスがそう囁いた。折り重ねられた体勢からは、その表情を見ることは敵わない。 だが、相手が今、どのような顔をしているかぐらい、察しはついた。 この男も、同じく他人には甘え慣れていないのだろう――サクヤの手が、自然とフェネクスの背に、そっとまわすような形で収まる。微かにフェネクスの背が反応を示した。 「私は、別に貴方が嫌いというわけではないよ」 「私も特にお前を嫌ってるわけではない。気に食わないが、嫌いとは違う」 そう答えるや、フェネクスの唇がサクヤの耳朶に触れた。 なにやら子犬にでも懐かれているようで、それは妙にくすぐったく思えた。そのまま、フェネクスの思うように、させておいた。 後で何故そうしたのか聞くと、せっかく夫婦になったのだから、義務や契約とは言わずに、それらしく勤しみたかったのだそうだ。 眠りにつくまで、他愛も無い身の上話を続けた事は覚えている。 だが、その時に交わした笑顔など、今となっては互いに戻る事はない。 |
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