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EternalCurse

Story-130.その神子の悲劇-第二幕U
この時、エステリアは教会内を走っていた。
異形の司教はナイトメアの力も手伝ってか、辛うじて倒した。
ただ、その最期だけか、妙に気になっるものがあった。ナイトメアに命を吸われたその司教の身体は、脆くもただの灰燼と化し、崩れ去ったのだ。その後、エステリアの足元には、焼け焦げた絵札だけが、落ちていた。
絵札には、この場にいたはずの司教と同じ絵が描かれていた。
あの司教はこの中に封じられていた魔物――誰かの使い魔に過ぎなかったのだろう。
司教を滅した直後、エステリアは窓の外に、道化の姿を見つけた。
ふわふわと宙を漂うそれは、何かを探すように一人で奥へと姿を消した。その風貌からして、道化が司教と同じ系統の魔物であることが見て取れる。誰が何のために、あのような使い魔を放ち、この教会を襲撃させたのだろう。エステリアは慌てて、道化の後を追った。

「多分……聖堂の方に逃げたような気がするけど……」
これまで後にしてきた経路に、人の姿などない。この先にあるのは聖堂のみである。
エステリアは立ち止まると、窓から空を見上げた。教会内のこの薄暗さが気になったのである。
上空には、いつの間にか暗雲が立ち込めている。魔物が逃げ込むこの場に、一人でいることもあってか、エステリアにはそれが随分と禍々しく思えた。
エステリアは気を取り直すように、深く息を吐くと、聖堂に向かって一歩踏み出す――その時だった。

「あいつの慰みものにされ……、火刑を逃れた後だったかしら……」
不意に、セレスティアの声が聞こえた。
「セレスティア……」
エステリアは弾かれたように顔を上げると、周囲を見回した。確かにセレスティアの声がした。しかし彼女の姿はどこにもない。
「森を彷徨っていた時に、傷ついた一角獣に出会ったの。なんとか治してあげようと、私はそれに近づいた。
そう、まだ自分には、力が残っているかもしれない――それに賭けようとしたのよ、滑稽よね」
自嘲するようにセレスティアは笑った。いや、笑うような声がエステリア自身の頭に響いたのだ。
「一角獣に私が触れた途端、それはとても苦しみ始めたわ。傷を癒すどころか、それは不浄を現す二角獣(バイコーン)へと変わってしまった。私は、自分の『穢れ』を思い知ったわ。貴方もきっと、知らない間に、この光景を見たことがあるかもね」
頭の中に鳴り響く声は、おそらくセレスティアが、直接送ってくる思念なのだろうと、エステリアは理解した。それと同時に、彼女がたった今話したものと、同じ内容の夢を、以前見た事を思い出した。

「貴方にとって、私は過去の栄光にすがりつく、惨めな女でしかないのでしょうね。エステリア」

「そんなこと……」

「愚直なまでに優しいのね、貴方は」

「…………」

「貴方は私の大切な妹が産んだ娘よ。数少ない血縁であり、可愛い姪だわ。妹の幸せを奪った連中も私は許さない。だから、カルディアを滅ぼした――そして、貴方を、神子というものを軽視した、この国の国王一家に今お仕置きを与えているところよ。いいえ、もう与え終わって虫の息。貴方にも見せてあげたかったわ。だから、止めようなんて無駄だから思わないでね」
「神子を軽視したから、国王一家を襲ったっていうの?」
誰もいない虚空にエステリアが叫んだ。

「あら、当然でしょ? 貴方は知ってるかどうかわからないけど、国王一家も私の処刑に一枚噛んでるのよ。いわばグルってやつ。粛清されて当然だわ」
セレスティアが返した。

「それともなあに? この世をより良くするためだけに育てられ、身勝手な人間によってその役目すら奪われた私には、何一つ、復讐する権利がないっていうの?」
運命を狂わされた出来事を、そして、希代の神子として慕われていたであろう、以前のセレスティアの性格を垣間見たエステリアは、その言葉に黙してしまった。

「仕返しは地道に、そして標的は確実に『全部』仕留めなくてはね」
「貴方の過去……私も、見たわ。でも……どうしてグレイスさんまで……」
「ああ、あの男の嫁まで殺したことがそんなに悲しい? でもね……血って大事よ? エステリア」
哀れむような声でセレスティアは言った。
「血は争えないって言うでしょ? 下劣な親の、それもどうしようもないクズの血が一滴でも入れば、その子もまたいずれは、その血が騒いで、二の轍を踏むんじゃなくて?」
エステリアは唇を固く結んだ。
グレイスを殺害する光景を見た時も、これと同じようなことをセレスティアは口にした。咎人の血を繋ぐ妻としてグレイスは殺された。
エステリアにはセレスティアの思想が、にわかに信じ難かった。ただ自らを辱めた男の妻を前にした、その場限りの怒りで凶行に及んだのだろうと、思っていた。だが、セレスティアの意思は揺らぐことはない。

「それは私達にも言えることよ。始まりの神子は、第三者の介入――つまりは夫との間に子孫を設けることなど望んではいないわ。いずれ他者の血が入り混じっていくことで、純粋な力、高潔さを失い、劣化していくことが我慢ならないのね。それに比べて、人間は困ったものだわ。どうしようもない、体たらくな者ほど数を増やすから。グランディアの王家を見れば一目瞭然だわ。あれこそ人の欲望をそのままに表したものだもの」
エステリアは冷めた目つきでそう語るセレスティアの姿が、まるで目に浮かぶようだった。

「さて、そろそろ終わった頃かしら?」
「終わる?」
「馬鹿ね、私が貴方にこんな話をするなんて、おかしいと思わないの? 時間稼ぎは終わり。もう手遅れだわ」
途端、頭に鳴り響く、潮騒がぴたりと止んだ。
時間稼ぎ――セレスティアが残した言葉が、肌を粟立たせた。
底知れぬ不安の中、エステリアは聖堂の扉を開いた。




聖堂に一歩踏み入れたエステリアはその光景を目の当たりにして言葉を失った。
床にびっしりと浮き上がった古代文字が織り成す魔法陣が、ナイトメアにも似た禍々しい赤い光を放っている。
その術式の中心部にルーシアとディオスの姿があった。
床に縫い付けられたように横たわるルーシアの細い腰を支えるようにして、ディオスはその胸に顔を埋めている。擦れ合う衣擦れの音に、ルーシアの身体が不自然なまでに揺れ動き、反る。
その喉元から溢れた血で、修道服を汚しているにも関わらず、ルーシアの浮かべた表情はどこか恍惚として、時折こぼれる吐息には、甘いものが交っている。
それはまるで、メルザヴィアで妖魔に組み敷かれていたときの、自分と状況が酷似していた。
波打つルーシアの身体から精気が陽炎のように立ち昇る。それは、ディオスの身体から溢れ出した瘴気と入り混じり、黒い炎となった。
炎はこの場を焼き尽くさんばかりに噴き上がると、巨大な鳥の形を模して、散り――そして再び、彼の身体に降り注いだ。さらなる力を取り込みながら、ディオスは低い呻き声を上げながら、顔を上げた。
ディオスの口元は、血に塗れていた。
見開かれた両眼は、禍々しいほどに赤く――今のディオスの顔は、まるで魔剣に支配されたときのシェイドを彷彿とさせた。
その身から溢れ出す瘴気がディオスの白い法衣に纏わりつき、どす黒く染め上げていく。色素の薄いディオスの髪が、闇を切り取ったような黒に染まり、背中まで伸びていく。
額の中央にその両眼と同じく、赤い光が灯っていた。いや、光――などではない、額の中央に、もう一つの『眼』があった。
「そうか、お前がこの時代の神子か……さすがに『あの女』ではない、か……」
言いながら、ディオスであった者がルーシアの身体を引き剥がすと、ゆっくりと立ち上がる。
「ルーシアさん!」
エステリアは打ち捨てられたルーシアの元に駆け寄ると、ぐったりと弛緩したその身を引き起こした。ルーシアの瞳は虚ろで、どこか遠い世界を漂っているようであった。未だ荒い呼吸が零れるその唇の端には、唾液の糸が引いている。
「神に捧げた聖女という身でありながら、あろうことかディオスと結ばれ、その子を産む――その女のあさましい思いならば、この『眼』を通して覗いていた。蘇るついでに、私はその望みを叶えてやったまで。その女も本望だろう」
「貴方は……一体……」
エステリアはルーシアを抱き寄せたまま、男を睨み上げた。他人の心を見透かす額の邪眼、そして神子との因縁をちらつかせる男の口ぶりが、気になった。だが、その答えは意外なところから返ってきた。

「この瘴気……身体中に虫唾が走ると思えば……やはり貴様だったか……」
傷は回復しているとはいえ、万全の体調とは言えないのだろう。錫杖を片手に握りしめ、扉に寄りかかるようにして、そこにサクヤが立っていた。その表情は、いつになく険しい。
「サクヤ……」
サクヤは、エステリアの腕の中で現を彷徨うルーシアを見下ろすと、
「よりにもよって、聖堂に逃げたのか……それも二人きりで」
忌々しげに呟いた。
「ここは魔物とそれに操られた人達に襲撃を受けていたんですもの。神のご加護を信じて聖堂に逃げ込むのも無理はないわ」

「神のご加護? 凡人の、ましてや『邪な想いを持つ』人間の祈りなど、神に届くか。彼らとやり取りを交わし、使役することができるのは、希有の力を持つ一握りの人間だけだ」

「つまりは、お前もその一人だった、というわけだ。サクヤ」
からかうように邪眼を持つ黒衣の男は言った。

「気安く私の名を呼び捨てにするな」

「怒りっぽいところは、相変わらずというわけだ。それにしても――なんだ? サクヤ。かつて神子として我が身を滅ぼしておきながら、貴様もまた魔道に堕ちたか?」

「貴様なんぞと一緒くたにするな、胸糞悪い。八つ裂きなんぞ生ぬるいことはせずに、粉々にしてやればよかった」

「サクヤ……?」
エステリアは戸惑いながら、サクヤと男の顔を交互に見た。

「こいつは邪眼(イービルアイズ)。そして別名、悪しき不死鳥(フェネクス)。私の……かつての夫だ」

「え? 夫って……」
エステリアは思わず眼を見開いた。ここで言う夫とは神子にとっての『英雄』――つまり、サクヤがフェネクスと呼んだ男は、ヴァルハルトより前の……かつてサクヤが粛清した英雄であることを意味していた。

「シェイドに似たお前の面差しを見た瞬間、我が眼を疑ったぞ。事実、ベアールの落胤という噂が本当ならば、似ていても仕方がない、とも思っていた。だが違った。貴様の正体を暴くべく、証拠を探したが――随分と欺いてくれたものだ。あの一つ目の『毛玉』は貴様か?」
口にするのも汚らわしいという感じでサクヤが言った。
「厳密にはこいつだ」
フェネクスが額の邪眼を指差した。

「再びこの世に生まれ出た時、肉体と邪眼が分離していてな。邪眼と私の意識は赤い宝玉とう形で常にディオスの手元にあった。私はなんとか具現化し、あの拙い身体で、必要な時に血を吸っていた――というわけだ。そのことに気付いたのが、ルーベンス司祭だった。勿論、殺してやったが。そんなことも露知らず、ディオスは親の形見として、これを後生大事に持っていた。時折、無くなる宝玉を不思議に思っていたようだが」

「あの宝玉が……」
エステリアが呟く。何故それを早く教えなかった――と言いたげな眼差しでサクヤはエステリアを見下ろした。

「皮肉なものだな。私は目の前の『証拠』を掴み損ねたというわけだ」
「残念だったなサクヤ、お前はあの時、私の力を完全に封じたつもりだったようだが、私と邪眼を引き裂いたのがそもそもの失敗だ。お前と戯れるついでに、私を切り刻んで殺したときと同じように、痛めつけてやったが、私からの礼は受け取ってくれたか?」
「存分にな。だからこそ今から倍返しにしてやる。覚悟しておけ……」
サクヤはフェネクスを睨みつけると、錫杖を身構えた。
「そう急かすな、サクヤ。せっかくの再会だ。然るべき場所にて、その祝いをしようではないか……」
フェネクスは唇の端を吊り上げると、足元を見た。その影が不自然なまでに伸びると、エステリアやサクヤの影に重なる。
「なに……!?」
突如として、泥濘と化した足元に、サクヤが、その場から退こうとした。
しかし、それも間に合わず、波の如くさざめく影は、エステリアやサクヤ、ルーシア、そしてフェネクス自身をゆっくりと、その中に引きずり込んでいく。
四人の姿が影に沈み、忽然と人の気配が消えた聖堂はいつもの静寂を取り戻していた。
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