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EternalCurse

Story-116.疑念と誤算‐V
「これを……」
グランディアの王城、国王より与えられた公妾専用の一室にて、ブリジットが今しがた認めたばかりの文をレオノーラに手渡した。その青白い手先を見るや、
「また具合が悪そうだけど……大丈夫?」
文を受け取ったレオノーラは、ブリジットの身を案じた。
「私の事は、大丈夫。それよりも……」
「分かっているわ。この文を届けて、あの銀髪の男が貴方の元に訪れるよう、都合をつければいいのね?」
念を押すように言われ、ブリジットが頷いた。
「神子の一行は、今はルーベンス教会付近に滞在しているはず。私と落ち合う場所はその文に書いてあると、伝えておくれ」
「……なるべく、血を流さずに全て済めばいいわね」
レオノーラははにかむように笑うと、文を丁寧に懐にしまった。ブリジットに一礼して、部屋を後にする。
扉の音が静かに閉まった事を確認したブリジットの表情が、苦痛に歪んだ。前に折れかけた身体をなんとか立て直し、長椅子まで辿りつくと、横たわる。大きく息を突いたブリジットの額には、汗が浮き出ていた。
レオノーラに余計な心配をさせぬよう、これまでじっと我慢していたのだ。呼吸を整えるために胸に置かれていたブリジットの手が、ゆっくりと下腹まで撫で下ろされる。虚空を見つめていたブリジットの瞳が微かに揺れた。未だ遠くに苦しみを感じながらも、どこか安堵したような表情で、ブリジットは瞼を閉じた。



公妾の部屋を出るなり、レオノーラは、王妃の侍女にして、ベイリー提督の娘、ネリーとばったり居合わせた。しかし、ネリーの様子は何故か慌てていて、まるで今にも物陰に隠れようとしていたような素振りである。
「ネリー……どうして貴方がここにいるの?」
「たまたま通りかかっただけよ」
悪い?――ネリーはそう言いたげな表情である。だが、ここは城内でも公妾の居室が設けられた一角だ。王妃の侍女である彼女が、たいした用もなく、訪れることは禁止されている。
「まさか、扉に張り付いて、中の会話を盗み聞きしていたんじゃないでしょうね?」
「人聞きの悪いこと、言わないで頂戴!」
図星を誤魔化すためか、声を荒げたネリーの足元で乾いた音が響く。レオノーラはつられて音の方に視線を移すと、そこには小さな瓶が転がっていた。ネリーが興奮した際に、衣服から落ちてしまったのだろう。何気なく小瓶を拾い上げたレオノーラであったが、手に取って目にした瞬間、その表情が一変する。
「これは……確か、オスカーもこれと同じような瓶を手にしていたわ。どうして貴方が持っているの?」
「公妾付きの侍女である貴方には関係ないでしょう?」
「この薬は何?」
「私は王妃付きの侍女よ? 貴方にいちいち詮索される覚えはないわ」
「話をはぐらかさないで。そもそも王妃付きの侍女が、妃殿下の命や言伝を受けたわけでもなく、ここをうろつくことが重罪という事ぐらい知っているわよね? 貴方、この薬の出所、あるいは薬効を知られてはまずいことでもあるの?」
「私は、オスカー様が必要だと言われたから、工面して差し上げただけよ。ねぇ、貴方こそ、オスカー様の奥方というわけではないのでしょう? 余計なお世話は辞めたら?」
「では、ステイシー伯爵家の検閲官として命じます。この薬の薬効を教えなさい。ラベルに書かれているのはスーリア語よ。私の許可無く、勝手に輸入し、他人にばら撒いているのだとしたら、事の次第では貴方自身もただではすみませんよ?」
これにはさすがのネリーも顔を強張らせた。
「滋養の薬よ。どうしても取り寄せて欲しいってオスカー様に頼まれたから、渡しただけ」
「偽りはありませんね?」
滋養の薬などこのグランディアには多数存在する。何故オスカーがネリーを通して、そのようなものを頼む必要があったのか、疑問ではあったが、
「ないわよ。しつこいわね! 返してくれる?」
レオノーラが次に問いかけるよりも早く、ネリーはふて腐れたように答えると、手をこちらに差し出し、瓶を返すように催促した。
品のない、傲慢な娘だ――ネリーを見据えたまま、瓶を手渡しながら、レオノーラは内心溜息をついていた。所詮は、庶出の娘だ。ベイリーに認知されるまで、上流階級の作法などは皆無の生活をしてきたのだろう。そんな彼女が王妃の侍女として召抱えられることになったのは、やはりベイリーが賄賂でも使って、ねじ込んだおかげに違いない。どの道、ベイリー自身にも調査を入れるつもりだ。その時に洗いざらい、暴いてやろう。そんなことを思っていた矢先――
「ネリー様!」
侍従の一人が大声を上げて駆け寄った。その息の荒さから、必死の思いで城内を巡り、ネリーを捜していたのだろう。
「このようなところにお出でとは……捜しましたぞ。ネリー様、国王陛下がお呼びです」
「まぁ、陛下が? 一体何かしら?」
ネリーはレオノーラを軽く一瞥した後、侍従の後に続いた。
踊るような足取りで去っていくネリーの背を見つめながら、レオノーラは彼女が婚礼間近であったことを思い出した。ふと、脳裏にオスカーの顔が過ぎる。私達には、縁遠い話だ――レオノーラは小さな溜息をついた。




ルーベンス教会よりも、幾分か離れた場所に、人だかりが出来ていた――慰問である。
この教会周辺と、西の森は、凄惨な事件が相次ぐ場所となっており、住民の気が滅入るのも無理は無い。大人達は、メイヤールから来たという司祭の話に耳を傾け、また司祭も、住民の悩みにことのほか丁寧に受け答えしていた。その傍らで、数人の軽業師が、芸を披露し、その場を和ませていた。教会での手伝いが一通り終わった後、ライアンとタニアは、その一団の元へと駆け込んだ。
「もう終わりかー」
あっという間の演技の終わりに、タニアが小さな溜息を吐いたときだった。

「こんにちは、おチビさん達」
急に頭上が真っ暗になり、ライアンとタニアが驚いて見上げた。二人の上に被さってきた影の持ち主は、道化の衣装を着ていた――つい先程までそこにいた軽業師であった。
「こんにちは、道化さん。メイヤールも大変なのに、ありがとう!」
「ありがとう!」
「君達こそ、大変だね。このグランディアに起きている様々な出来事を、お客さん達から聞いたよ」
「大丈夫だよ、きっと。陛下がなんとかしてくれるもん」
「うん! 大丈夫」
自信に満ち溢れた笑顔を見せる子供達二人とは対照的に、軽業師はふいに表情を曇らせた。
「大丈夫……ねぇ。ところで、君達は、こんなにもグランディアに不幸が降り注ぐ理由って知ってる?」
「え?」
軽業師からの唐突な質問に、ライアンとタニアが目を見開く。
「全てはセレスティアの悲劇を起したベアールが悪いんだよ」
「ええ? でもベアールは国王陛下が倒したんだよ?」
タニアが口を尖らせた。
「だけどね、ベアールの血筋はまだ生き残っている。だからセレスティアは許せないんだ。彼女はそいつが生きている以上、グランディアに報復し続けるだろう」
残念そうに軽業師は言った。
「だからベアールの血を引く子供を見つけて、人柱にすれば、セレスティアの怒りも鎮まると思うよ?」
「そんなこと言ったって、ベアールの子供なんて、どこにいるかわかんないよ!」
「わかんないよ!」
「何を言ってるんだい? ベアールの血は絶えずに生き続けている。君たちのずっとずっと傍にいるじゃないか、それを魔女が後生大事に囲ってる」
「え?」
「どこ? どこにいるの?」
ライアンとタニアが思わず辺りを見回す。
「魔女はそいつの傍にいたいんだ。だから周りに不幸を振りまくんだよ。このままじゃ、セレスティアの逆鱗に触れてしまう。ここもカルディアやメイヤールの二の舞になってしまう」
大きな声では言えないけどね――道化が人差し指を唇に当てた。
「ねぇ、道化のお兄さん、もっとお話を聞かせて」
興味津々に尋ねてくる子供達を前に、軽業師は唇の端を上げて笑った。陽が傾き始めている事も他所に、子供達は軽業師の話にずっと耳を傾けていた。





それは三年ほど前の出来事だった。グレイスは二十代後半に差し掛かって、ようやく縁談が決まった。
元より、この国の婚期は早い。適齢とされているのは、十代後半から二十代前半なのだが、十五、六で既に人の親となっている者も少なくはない。大貴族においては生まれながらに結婚相手が決まっているという。それから考えれば、グレイスは年嵩の女性の部類に入る。悪い言い方をすれば、『行き遅れ』というやつである。
そんなグレイスの相手は辺境の地に住んでいる地方貴族の男だという。
婚期が遅れれば遅れるほど、相手の条件も悪くなるものである。
たった一人のお嬢様を、辺境にやってなるものか――このことについては、コーンウェル家でも随分と物議を醸し出していた。しかしそれは、バーグマン家の当主、ウォルターから、故郷の屋敷を捨て、こちらグランディアに移り住むという申し出もあり、あっさりと解決することとなった。
しかし互いに顔も知らぬまま、婚礼に至る事に不安がないといえば、嘘になる。
そこでグレイスとウォルターは、お互いの顔を会わせる日まで、しばらく手紙のやり取りをすることとなった。
辺境の地に済む、ウォルター・バーグマンの人となりを知るには、その方法しかなかったためだ。


私はそれほど器量が良いわけでもなく、身体もどちらかといえば、太めで、貴方好みの女性であるかどうかもわかりません。ですが、他人に料理を振舞うことと、子供達は大好きです――。

自分のことをどう伝えればよいのか分からぬまま、グレイスはただ正直に思いを書き綴っていた。
そのことによって、相手が失望するのではないか、破談になるのではないか、という不安も抱えて。

大丈夫ですよ。私とて、人に自慢できるような見た目ではありません。貴方には後でお話しなくてはいけないのですが、きっと驚かれることでしょう――。

自分には兄弟がいないため、家族はなるべく多い方がいいと、ウォルターは返してきた。その後、まだ顔すら合わせてもいないのに、このような話をするのも変ですね。と付け加えて。
グレイスは手紙を読みながら、思わず噴出してしまった。
バーグマン家の故郷である辺境まで手紙が届き、また返事が来るまで、かなりの日数を要する。やり取りを重ねるうちに、楽しくも待ち遠しい日々が通り過ぎていった。手紙を読む限りでは、彼は穏やかな青年で、なんでも料理は地鶏を香草で蒸し焼きにしたものを好んでいるらしい。バーグマン家は果樹園を抱えており、そこで採れたもので作った果実酒はこのグランディア城下にも並んでいるという。グレイスは今度買い物に出かけた際、眼を凝らしてその果実酒を探そうと思った。
それからしばらくして、また手紙が届く。

正式に婚約する日取りが決まったあかつきには、これからバーグマン家の一員となってくれる貴方に、懐中時計を送ろう。勿論、蓋の裏には、貴方の名前と貴方への言葉を彫って……。
――それが彼からの最後の手紙となった。

そして、バーグマン家がコーンウェル邸に移り住む日、現れたのは、想像とはまったく違う、男であった。彼はウォルター・バーグマンと名乗り、旅の道中での出来事をグレイスに説明した。
当初、グランディアに向かう最中、凄惨な事故により一瞬にして全てを失った事で、ウォルターは心に傷を負い、閉ざしてしまったのだ、とグレイスは思っていた。ならば徐々に打ち解けていくしかない。頑なな彼の心に張った氷を溶かしていくつもりで、グレイスはウォルターに尽くした。子供でも生まれれば、自分の家族が出来れば、傷も少しは和らぐだろう。しかし、そんなグレイスの想いも虚しく、我が子が、それも嫡子が生まれてもウォルターは見向きもしなかった。彼が興味あることといえば、この国での自らの地位を少しでも上げることだった。
そう、権力に執着する時、ウォルターは生き生きとしていた。そして、次の子がグレイスに宿ったときさえ、ウォルターは険しい顔をしてみせた。その上、彼は一晩中、飲み歩いて、屋敷にはほとんど帰ってこなくなった。

本当にこの人が、あのウォルターなのだろうか?――三年前に出会ったときから、覚えた違和感は、もうグレイスの心の中に収まりきれぬほど膨らんでいた。
思い切って、グレイスはついこの間、歴史資料館へと足を運んでいた。歴史資料館に辺境の地方貴族の家系図や写し絵といった資料まで取り揃えてあるとは限らない。
いいや、それはただの言い訳だった。正直、調べるのが怖かった。自分が騙されているなど、認めたくはなかった。結局、途中でマルグリットの死を知り、神子と出会った後、怖気づいて資料館には行けず、引き返す事となった。そして追い打ちをかけるかのように、最近、巷で耳にしたのは、夫とベイリーの娘が婚約するという噂だ。

そんな馬鹿な話があるものか――グレイスは打ちのめされた。まだ夫と離縁したわけでもないのだ。ベイリーの娘との婚約など成立するはずがない。ならば、確かめなくてはならない、『真実』を。それからというものの、グレイスはただひたすら夫の帰りを待ち続けていた。
居間の食卓には、果実酒のボトルが置かれている。勿論、この酒は、バーグマン家の領地で作られたものだ。そう、三年前、彼を驚かせようと、必死の思いで探して手に入れた。今となってはその日々が懐かしい。
グレイスは深い溜息をつき、俯いた。と、その時、こちらに近づいてくる荒々しい足音を耳にした。乱暴に扉が開かれる。
「貴方……」
息は荒く、髪を振り乱し、必死の形相でこちらを睨みつけるウォルターの姿に、グレイスは絶句した。
「グレイス、金はどこだ?」
「え?」
「急に入用が出来た。金、金目のものはどこにある。出せ」
「待って、貴方、落ち着いて下さい。ひとまずは、これでも飲んで……」
グレイスが、果実酒をグラスに注ごうと手を伸ばす。ウォルターはそんなグレイスの手を跳ね除けると、ボトルを取り上げ、そのまま瓶の口に唇を付けた。貴族の作法とは縁遠い、粗野な振る舞い、そして『自慢の果樹園』から作られたはずの、その酒に一切の愛着も示さぬ夫の姿に、
「前々から、思っていましたの……」
グレイスはボトルのラベルを見つめたまま、呟いた。
「あの……貴方は一体……誰、なのですか?」
その言葉を耳にした瞬間、ウォルターは眼を見開き、果実酒のボトルを手放すと、反射的にグレイスの長い髪を力一杯掴んだ。
「嫌っ……痛いっ……!」
ウォルターはグレイスを頭を引き寄せたかと思うと、そのままテーブルに押さえつけた。大きな腹が圧迫され、グレイスが悲鳴を上げた。ウォルターは小さく舌打ちすると、グレイスの身体を反転させ首を絞める。
「止め……て!」
グレイスが首に添えられた夫の手を退けようとするが、男の力に敵うはずもなく、せいぜい、爪を立てるのが精一杯だった。抵抗も出来ずに下ろされたグレイスの腕が勢いよく食卓のグラスを薙ぐ。床に落ちたグラスが乾いた音を立てた。
「苦し……い、あな……た……止め……」
しかしウォルターは力を緩めない。夫の形相の中にグレイスは悪鬼を見出した。意識が遠のいてきた時、
「お嬢様? お嬢様! いかがなされましたか?」
扉を険しくノックする音が聞こえた。
「チッ……」
ウォルターは素早く手を離すと、グレイスから距離を置く。
「お嬢様!?」
異変に気がついた家政婦が、部屋の中に飛び込んでくる。床に屈み、顔を真っ赤にして咽ているグレイスに駆け寄り、その背を擦る。乱れた食卓のクロス、倒れたボトルから滴り落ちる果実酒、そして足元に散らばったグラスの破片を見るなり家政婦は、怒りに身体を震わせ、
「お嬢様に一体何を……!」
ウォルターを睨み上げた。
「知らん。産気付いたんじゃないのか?」
「何をいけしゃあしゃあと!」
鼻息を荒くして、ウォルターに噛み付く家政婦を、
「止め、て、大丈夫だから……」
掠れた声でグレイスは制した。
「お嬢様……」
口惜しそうな家政婦を他所に、ウォルターは何事も無かったかのように、部屋を出て行く。
「あの男……よくもお嬢様をこのような目に……」
「いいの……もういいのよ。だから……お願い、私のことも放っておいて……ううん、一人にして……」
グレイスはよろよろと立ち上がると、家政婦の手を振り切り、力のない足取りで、居間を後にした。


どうして私はいつもこうなってしまうのだろう――生気を失った表情で一人廊下を歩きながら、グレイスは泣いた。まだ痛む首に手をあて、何度も擦り下ろす。
これまで自分にとって、嫌な事、考えたくない事は全部心の中に蓋をして閉じ込めてきた。夫に抱いた疑惑の数々も、彼が子の誕生を煩わしく思っていることさえ、グレイスは自分の都合の良いように解釈し、理由をつけ、その心に言い聞かせてきたのだ。現実から逃げるようにして、耐え過ごしてきた結果がこれだった。

気がつけば、いつの間にか、寝室の前まで足を運んでいた。そうだ、ユーリの寝顔を見れば、きっと安心できる。落ち着くことができる。何より部屋が冷えてないか暖炉の薪も心配だ――。グレイスはいつもと変わらず、自身を落ち着かせると、寝室の扉をそっと開く。眠っているはずの我が子を起こしてしまわぬよう、足音を立てずに室内に入った時だった。
「どうしたの? そんなに泣きはらして」
「え?」
聞き覚えのない声に、グレイスは驚き、顔を上げた。彫像のように美しい娘が暖炉を前に佇んでいた。
ユーリを寝かしつけてくれた使用人だろうか? いや、こんな顔に見覚えはない。グレイスは首を傾げたまま、美しい娘を凝視していた。
「あら、驚かせてごめんなさい。こんばんは」
グレイスを見て微笑した娘の空色の瞳が、冷たい光を放っていた。
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