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EternalCurse

Story-112.憔悴
国王とひと悶着あった後、ブリジットとレオノーラは、未だその別荘に留まっていた。国王の前から下がる間際、ブリジットが不調を訴えたためである。ばつの悪い雰囲気が漂う中、国王の好意により、しばしの休憩を取らせて貰うことになった。国王の機嫌が直ったのは、あの寵姫のおかげ、といってもいい。
それは、ジュリエットの存在こそが、今の国王にとっての心の拠り所であると、痛感する出来事でもあった。
ブリジットは顔色が元に戻った後、レオノーラを伴って露台に佇み、夕暮れを眺めていた。
「もう大丈夫なの?」
心が抜け落ちてしまったようなブリジットの横顔を、心配そうに覗き込み、レオノーラが語りかける。

「そろそろお暇しましょう? 貴方、心労が溜まっているのよ。お屋敷に帰って早く休むといいわ……」
「私は、屋敷には戻れそうにない……。今宵は陛下に所望されている」
「今にも倒れそうな貴方を所望ですって? それも……つい先程、貴方にあんなことを言っておいて?」
国王とのやり取りの中で、ブリジットの様子が一変したのは一目瞭然である。それが、身体に変調をきたす一因となったことは、言うまでも無い。
「まさか……陛下は貴方を追い詰めた詫びのつもりで……」
ブリジットに情けをかけようとしているのか――レオノーラは勘ぐるように言った。しかしブリジットは頭を振る。
「陛下は常に自分の主張を曲げぬお方。私に詫びるつもりなど、毛頭ないはず。閨に呼ばれるのは、あくまで寵姫を正式に迎え入れるまでの手持ち無沙汰……つまりはある種の玩具と同じ」
「そんな……」
「だからお前は早く、自分の屋敷に帰るといい。それが自分の身を守る唯一の方法になるのだから」

レオノーラは俯いたまま、掌に爪の痕が付くほど、きつく拳を握り締めた。国王がブリジットに無体を強いることが目に見えているからだ。それを止めることも出来ず、ただ公妾が案じてくれるまま、ここから逃げることしかできない自分が、とても歯痒かった。

「陛下も妃殿下も、私の主。どちらかを選ぶなど、できるはずもない。いつも中途半端な真似しかできない私は、なんて無力なんだろう。つくづく、自分が嫌になる」

「そんなことないわよ……ブリジット」
「今となっては、私は諫言すら許されない。結局、あの演目すら止めることも叶わなかった」
「演目? 『その神子の悲劇』のこと?」
それは聖誕祭の当日に上演されるという、舞台のことだ。
「あの内容は、魔女となったセレスティアが処罰される様を、滑稽に描き、皆で嘲笑うもの。マルグリットを始め、国立歌劇場の役者達も内心は懸念していた。このようなものを王太子殿下のお誕生日に上演するなど、なんと罪深く、罰当たりなことか。他国が知れば、その下劣さに眉を潜めるというもの」
まして『セレスティアの悲劇』を起した国が、そのような演目を上演するなど、世界の笑いものとなるにも等しい所業である。

「貴方……もしかして、マルグリットや劇団員に、公演の取り下げを願うように頼まれていたの? 万が一、陛下がマルグリットへの弔辞を快く引き受けてくれたなら、その後にでも公演中止を乞うつもりだった?」
だが、ブリジットは何も答えない。一介の侍女の前でそれを肯定することは、やはり難しいのだろう。

「あの人は……ライオネルは国のために死んだ」
ライオネル・デリンジャー――言うまでも無い、ブリジットの夫である。

「神の恩寵を受ける国王陛下、妃殿下の命は絶対であり、その判断は正しい。あの人はそう信じて……死んでいった。私もあの人の遺志を継ぐ者として、そう在り続けようとしている……けれど、それは本当に正しいことなのか……私達がやっていることは、本当に……」
「間違ってなんかないわよ……」
ブリジットの言葉をレオノーラが遮った。

「陛下がなさることは全て、この国を守るため。忠誠を尽くしている私達が、それを信じなくてどうするの」
正直、レオノーラにもブリジットがこぼしたように、国王に、そしてこの国の在り方に対し、思うところは多々ある。時折、迷うこともだ。己の言葉と心が矛盾していることなど、承知の上で、レオノーラは檄を飛ばした。
なによりこれほどまでに、弱々しいブリジットを見ていられなかったのだ。
「そろそろ……私、帰るわね……」
か細い声でレオノーラが呟いた。
「道中、気をつけて」
ブリジットの言葉にレオノーラは小さく頷くと、その手を取った。
「お願いだから、ここから飛び降りたりしないでね」
「飛び降りる……? この私が?」
「今の貴方ならやりかねないから、言っているのよ」
喘ぐようにレオノーラは言った。苦しげな表情で語るブリジットの姿に、レオノーラは、もしや――と思ったのだろう。
「それこそあり得ない。死ぬのはこの国を守る時と、以前から決めているから」
笑いながらブリジットがレオノーラの手を振り解く。
その刹那、共に見た落日は、まるでこの大国の現在のようにも思えた。






一体、何刻眠っていたか、など覚えてはいない。瞼を開ければ、空――ではなく、覚えのない天井が目に入った。
「気がつきましたか?」
辺りを見回すよりも先に、よく知る男の声がかかる――シオンだ。
「ここ……は?」
弱りきった声で、サクヤは訊いた。そのまま身を起そうにも全身に力が入らない。改めてサクヤは己の身体が、大量の血を失っていることを知った。
「ここは、ルーベンス教会ですよ」
シオンの隣で、ディオスが微笑む。その傍らにはルーシアがいる。
「一昨日の夜、森で貴方が傷だらけで倒れているところを、通りかかった人に発見され、こちらに運ばれたそうです。それから丸一日眠っていました。まったく……こんな形でルーシアさんの元を訪れる羽目になるとは、思っても見ませんでしたよ」
サクヤの全身に巻かれた包帯を痛々しそうに眺めながら、シオンが言った。
「迷惑をかけた、礼を言う……」
サクヤはディオスに向かって言った。しかし、その表情は心なしか、強張っている。
「では、私はこれにて。お二人だけでのお話もあることでしょう」
ディオスはゆっくりと立ち上がった。その身体をルーシアが支える。
「傷が回復するまで、この教会で静養してください。遠慮は無用です」
「手厚い配慮……いたみいる」
サクヤが簡単に礼を述べると、ディオスは軽く会釈をして、ルーシアと共に部屋を出た。


「で、お前は……どうして私がここにいることを知った?」
目覚めたばかりの虚ろな表情をこちらに向け、サクヤがシオンに訊く。
「貴方が一人で森へ行った日、私も後を追ったんです。貴方と会い出せないまま、夜になって。
一度、引き返そうとしたときに、ルーベンス教会に傷ついた異国の女が運ばれたと聞きまして。急いでこちらに来たら、案の定……というわけです」

「他の連中は、どうしてる?」

「貴方がこのような目に遭ったことは、先日、宿舎に戻って伝えました。エステリアさんは、貴方の治療をするため、すぐさま向かいたいと仰っていましたが、全員で押しかけてもこちらに迷惑がかかるだけです。とりあえず、私が看病するので、エステリアさん達にはディーリアス通りの宿舎を引き払った後に、こちらに向かってもらうことにしました」

「惨殺事件の話は……、どうなった……?」
「ああ、それならガルシアさんが、人狼『ご本人』の宅に赴いて、話をつけてきたそうです。心配には及びません」
「そうか……」
言いながらサクヤがゆっくりと、腕を動かし、掌を凝視した。

「包帯を巻いたのは……お前か?」

「いいえ。ルーシアさんです。彼女が怪我をした貴方にすぐさま手当てを……」

「あの女、随分ときつく巻いたようだな。嫌がらせか?」

「ルーシアさんがですか? きつく巻いたのは止血を早めるためでしょう?」
まさか――といった具合で、シオンが肩をすくめた。

「ほう……息の根を止めるぐらいに巻くのが、最近の治療法か?」
「え?」
「指の間接は曲がらん、足は鬱血している。その上、腹や胸は、死ねと言わんばかりの締め方だ。これを殺意と言わずして、なんと言うんだ?」
「申し訳ありません。私は眠っていた貴方に直接気を送ることしか、やっていませんでしたので、気が付きませんでした」
シオンは苦笑しながら、サクヤの包帯を緩めていく。振り解かれた包帯から覗いた白絹の肌には、見るも無残な切り傷が走っている。その傷口を改めて確かめるなり、サクヤは眉をしかめた。
「傷口に瘴気が入り込んでいるな。いつもより回復が遅い……」
完全には塞がってはいない薄桃色の傷跡から、薄っすらと血が浮き出てくる。
シオンは腕から滴り落ちるその血を舌先で掬い取った。
サクヤはじっとシオンを見つめた。
「申し訳ありません。これが一番手っ取り早い方法だったので」
「大丈夫か? 私の身体に、万が一、呪詛でもかかっていたら、血を含んだ時点で……お前、死ぬぞ」
「この程度の瘴気なら、問題ありません」
「なら続けろ……」
「どうしたんですか? 随分と素直なことで……」
「考えなくてはならないことが山積みだ。しかし、怪我のせいで頭が回らん。これで気が紛れて血が止まるのならそれでいい」
サクヤは天井を見つめたまま、静かに言った。
「失礼します」
首や、胸、下腹や、太腿の傷にシオンの唇が触れ、息を吹きつけていた。滲み出ていた血の量が幾分か減ったのを確認すると、
「完治させるには、この傷は見た目以上に、厄介で、深すぎます。治療を施しても、また見えない刃で抉られているかのようです。貴方の毒を私が引き受ける傍ら、私の力を分けて、貴方に循環させることで、少しだけ回復を早めることができますが……?」
「四の五の言ってる時間はない。そうしてくれ。治療代といってはなんだが、あの世で預かっているお前の妻の魂に触れさせてやろう。だから全力で私の傷を治すんだ」
「まぁ……夢枕に妻が立つのはありがたいとして……どうしたんですか? 随分と羽振りの良いことで……」
「それだけ、私も追い詰められている、ということだ」
サクヤが苦笑する傍ら、再び指先から滲み始めた血を、シオンが吸い取る。ほんの一口、血を含んだ直後、シオンが眉を潜める。

「……不謹慎にも、覗いていた人間がいたようですね」
「あの小娘か……?」
「ええ、貴方が目の敵にしているその小娘です」
戸口を見据えたままシオンが言った。
「どの辺りから見ていたかはわかりませんが、あのお嬢さんからすれば、私達は今頃、如何わしい間柄だと勘違いされているかもしれませんね。これが治療の一環なんて、思いもしないでしょうし」
あくまでもこれは、サクヤに染み付いた瘴気の一部をシオンの身体に移しているだけに過ぎない。だが、傍から見れば、人の生き血を啜る行為は、魔性そのものでしかない。
シオンは自嘲するように、喉の奥で低く笑っただ。その怜悧な表情を見上げるや
「お前の本性はやはり鬼だな」
「私だって、そこまで出来た生き物ではありませんよ。相手を憎みもすれば、殺意を抱くことだってあるんです」
言いながら、シオンがサクヤの爪先に口付け、薄っすら笑う。傷つけられたサクヤの身体は、初めに触れたときよりも、若干の回復を見せているようだった。
施術は間違ってはいない――安堵したように、息をつくと、シオンはサクヤの身体に折り重なった。髪に隠れて見えなかった、頬の裂傷に気付いたからだ。
「あの女……邪魔だな……」
天井を眺めたまま、サクヤが呟いた。
「だったら始末しますか?」
身体を起し、恐ろしく真顔で答えるシオンに、サクヤは目を見張る。
「貴方が邪魔だと思うものを排除するのも、黄泉の門番たる鬼神の役目、なのでしょう?」
「お前、何かあったのか? 不満でも溜まっているのか?」
普段とは異なるシオンの様子にサクヤは困惑していた。
「まだ月が欠けてませんので、いかんせん凶暴になっているだけでしょう。ですが、いざ私の口から()ると聞かされれば、貴方から湧き出ている殺意も、さすがに削がれたでしょう?」
「……すまんな。本当に、私……らしくない……」
遠回しに諌めるシオンに、サクヤは血の気の失せた顔で、力なく笑った。







あの人は嫌い――なぜならば、この心の内に巣食った、神に仕える者にあるまじき、浅ましい願望を全て見透かしているようで。
ディオスを部屋に送り届け、改めてサクヤの包帯を取り替えるべく引き返したところ、ルーシアは二人の『異様な光景』を目にすることとなった。
覗くつもりなど毛頭なかった。二人の話が途切れる時を見計らって、入室する予定だったのだ。
ただ扉の前で聞き耳を立てていたつもりが、魔が差して、鍵穴に目が行ってしまった。
その中に『存在した世界』は、人のそれとは明らかに違うものであった。
ルーシアの本能がそう察したのだ。
そう、傷ついた白絹の肌を伝う血を、丁寧に拭い去るあの男が醸し出す雰囲気は、柔和な普段から一転して妖美で、それを心地よく受け止めるあの女は、こちらの官能すら刺激するかのように艶かしく思えた。

思い起こせば、『あの女』が、この教会に運ばれてきた様子は、まるで、蜘蛛の巣から命からがら逃れてきた蝶のようであった。
あの女に、片時であっても、ディオスが付き添ったのだ。それは身を焼くような思いであり、治療を施すルーシアの手にも自然と力が篭った。
あれが神子の仲間――ルーシアにはにわかに信じがたかった。
特に、あの女は誘惑そのものだ。
このままではディオスもあの女に取られてしまう――そんな思いが交錯する中、ルーシアは使わなかった包帯を手にしたまま、早足で自室に向かっていた。
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